DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2003.06.24

6月24日(火)綾小路きみまろさんのライブは、中高年から老人パワーの爆発だ。場所もピッタリ江東区。僕はただ呆然と未来の自分を想像していた(写真参照)。


 綾小路きみまろさん。このアーティストのステージには、今までのどんなライブにも流れていなかった、何処か柔らかいペーソスが滲み出ている。


 ツー・ビート時代のビート・たけし氏ほどスピードもないし、あっさりと乾燥してもいない。関西の漫才界のH氏の毒舌ほどねっとりとした湿度が感じられない。攻撃的だが、愛がある。批判的だけど包容力がある。嫌味なのだが、受け入れられる。全体の構成も意外に突発的で、その自然なテンポの話法のせいか時間の過ぎるのも忘れてしまう。


 会場は、彼の話術を楽しんでいる。喜んで乗せられている。主張のない若者のロック・コンサートよりずっとハードに、心を打つのだ。観衆自身がつねられ、抓まれ、ひねられているのに、喜んで材料になっている。(こんな芸能タレントさんって、かつてイナカッタ・・・・・?!)ひょっとして、愛する息子に少し強めに肩を揉んでもらっているといった風情なのだ。会場に集まった2000人のお客様は居心地が良くて、ずっと聞き入っていたい風情。


 この秋、この鹿児島出身のライブ・アーティストの「飴」と「煎餅」の商品を開発する予定。いい人と回り逢った気がする。





2003.06.11

6月11日(水)透明に近い白い海月(くらげ)がゆっくりと水槽の中を漂っている。S化粧品のテレビ制作の現場は、東名高速の川崎インターからほんの数分の住宅街の中にあった(写真参照)。

 朝通の大柴局長と、クライアントの田中代表、永野宣伝担当役員と商品の話や、血液型についての冗談話をしている。
「兎に角A型は慎重で神経質ですから、媒体プランは勿論のこと、テレビCMも絵コンテがかなりきっちりしてないと、気分が悪いのですよね」ヒガシ


 「そうそう、一方でO型は聞く耳は持ってるけど、我田引水の人が多いですね。いくつかのパターンでプレゼンしてるけど、実はやりたい企画はしっかり決まってるんですよ。」
「それに較べるとB型のクリエィターはフィーリングでしょう?感覚的な表現や、細かいところに妙なこだわりがあって、頑固だよね。」
「うちの家族は全部ABなんですよ。いつも気持ちが揺れてる。家にいるとA型の僕は気を使うんですよ。」


 最近、仕事仲間の血液型が妙に気になる。数年前さだまさしさんと徹夜で血液型の話をしたときも、逢う人逢う人全員に血液型を聞いてみた。
 当時は、O型がやけに多くて、そう言えばなんだか“のんびり、ゆっくり”仕事が進んでいた気がする。


 このところ、プロジェクトの周辺はB型のパートナーが凄く列を成している。


アルファ・オメガの植村君、JSCの野中君、タレントのN氏、JTBの馬場専務、原田君、福島さん、藤村直美さんのとこの木村さん、元ホット・スパーの佐々木代表、キョウドー東京の牛原君、アウト・プットの松田さん、テレビ朝日の皇さん、それに銀座軍団の志乃さん、さつきさん、由紀子さんと枚挙にいとまがない。それにB型属のAB型を加えるともっと大集団になる。戸張さん(ゴルフ・プロデューサー)、T・アライブの橘君、女優のNさん、これはこれはという感じ。


 日本人の血液型のシェアーが4:3:2:1の割合でA、O、B、ABと続くらしいが、僕の仕事の殆どはB型群が牽引している。


 スタジオに入ってしばらくすると、“神様のハンドメイド”のような妖艶な美しさを持った涼風さんが、メイクを終えてスタンバイした。彼女の後ろには、濃い紫色の海水をたっぷり入れた3メートルほどの水槽が置いてあり、20匹ほどの海月(くらげ)が浮かんでいる。


 照明に明かりをつけると、この世のものとは思えないほどの神秘的は空間が演出され、ADの臺(だい、O型)さんの覗くファインダーの向こうには、肉眼よりさらに幻想的な光景が揺れている。


 涼風さんは、いったい何型なんだろう・・・・それが妙に気になっていた。 




2003.06.08

6月8日(日)「プライド26」横浜アリーナ、ミルコは硬い! S氏とT氏の招待で、リングサイドに陣取って、格闘技を観戦している(写真参照)。

 普通のスポーツと違って戦いをまじかで楽しんでいると、体中の血管という血管が小刻みに振動し、静脈と動脈が激しく血液を入れ替え、右心房と左心房が休むまもなく活動し、特に選手が入場する瞬間は口の中に入っているハンバーガーを噛むのさえ忘れてしまう。


 古くは自分が演出したボクシングの鬼塚選手の世界戦や、最近では商品を企画化したボブサップ選手などの場合、勝敗はもちろん、試合の内容が選手(コンテンツ)のマーケットに大きく影響を与えるため、この血管の鳴動は逆に冷たく静まり返り、音も聞こえない。


 そんな”凍った商人の眼”で、明日のスポーツ新聞の見出しを気にしながら、控え室と、リングサイドと、スタンド席を行ったりきたりする自分を、何処か寂しく感じるのは、あの少年時代の“震える興奮”を唯一味わえるこの戦いの場ですら、仕事場にしてしまったことで、失ってしまった悲しみでもある。


 僕に格闘技の面白さを教えてくれたのも、やはり父ではなかったろうか?
 もともとどんな男の子(オス)も喧嘩に気を引かれている。戦いの触手は赤子の頃から、いつだって、どこだって、生まれた瞬間から敏感に研ぎ澄まされている。

 どんなオスも雌を奪い合い、食い物を取り合い、寝床を占領しあい、その為に、生きるために肉体と肉体が“生存競争”を演じる、そしてそれが希望という名の“怒りや悲しみ”の感情を伴ってぶつかり合うとき・・・そこに格闘が生まれる。これに経験と其処から生まれるノウハウが加わって「技」になる。


 男は誰でもその人生の中で、この戦うための「技」を意識して習得しなければならない瞬間が訪れる。その一つに愛する人を得た時、守らなければならない人を見つけた時がある。そのとき今までに感じたこともなかった様な、自分とは異なった”別の動物の鼓動”が自らの体内に聞こえる。


 生命力がある限り、僕もこの闘いの本能を持ち続けるであろうし、錆び付いた心の爪をポリッシュ(磨く)し、そのために無理にでも目標という敵を探し、課題という獲物を探し続けるのだろう。


 ミルコ・クロコップは、今年結婚したばかり、”ちょうど巣を造ったばかりの”鷲のように激しく強い。


 男にとって、それも一旦は幸せなことなのだから。




2003.06.06

6月6日(金)丁度1年前の、この日を思い出している。僕は、蒸し暑いあの夏の夜を、忘れないだろう(写真参照)。

 国中が、サーカーの祭典で沸きかえり、その熱に呼応するように、昨年の夏は記録的に蒸せていた。
 今晩も雨で濡れたような月がその淡い光線で、僕を魔法のように“記憶”の森に誘い込んだ。


 S氏にロシア戦のチケットを依頼されていた僕は、お客様用にVIP用に用意したわずかなチケットの中から、取って置きの1セットを用意した。
 春から続いた饒舌なアナウンサーの解説に飽き飽きしていた僕は、この頃になると毎晩モーツァルトを聴きながら、TV画面の国別の組み合わせ表と星取り予想を分析してベットに着くのが習慣になっていた。

 月の海に浮かんだように、レクイエムが静かに部屋に流れている。

「こんなに高価なもの頂いていいのかしら」

「もう二度と見られないんだよ。僕たちが生きてるうちに、日本でワールドカップが開催される確率は、もの凄く低いんだよ」

「弟が、きっと感謝するわ・・・・・こんなもの頂いたこと今まで一度もなかったもの」

 家族のことなど、口にしたことのないS氏がふいに弟の話をしたのに、僕は驚いていた。


 仕舞い込んだはずの残りのチケットが、その後のトルコ戦の不吉な勝敗を予想するかのように、底の破けた紙袋からはみ出していたのに、気がつかなかった。


 スポーツで負け癖が着くと、なかなか自信が持てなくなり、本当は実力があるにもかかわらず、自分のことを過小評価してしまい一層勝てなくなる。

 同じように、女性の人生も、あまりに深い傷を負ってしまうと、幸せを感じようとする心が希薄になり、本人の知らないうちに“幸福不感症”になってしまうことがあるようだ。


 日本代表は、見事に予選突破したことを単にラッキーと思っていたのではなかろうか?(写真参照)





2003.06.04

6月4日(水)京都の長岡京にある三菱電機の工場にお邪魔した。5万坪という広大な敷地に、大学構内のキャンパスに吹き抜けるような初夏の風が流れ、区画ごとに整頓された建物は、技術者の無駄のない思考を反映するようにシンプルだ(写真参照)。


 N氏とS氏の招待でこの研究所を訪れたのは、プリンターの説明を受けるためだった。

 ブルーの作業服が、彼らの製品作りに対する真摯なハートを一層浮き彫りにし、営業のご担当の方から、技術開発者までのたくさんの方で商品を案内する・・・・その丁寧さは顧客重視の企業マインドを深く感じさせた。


 高校時代の寮のそばにも、この会社と同じグループの工場があった。そこは、背丈より高い2メートルほどもある肉厚のコンクリートに囲まれた馬鹿でかい要塞のような建物で

 「ベトナムに送る戦車や、弾薬を作っているんだ。よく血にまみれた装甲車や機関銃が運び込まれてくるらしいぜ。」

とその頃はやりの反戦派の同級生の間で噂になっていた。


 16歳の時から父の転勤の関係で名古屋に一人残り、古出来町にある名門高校の寮から夜毎、栄町の公園に出かけ反戦歌を唄っていた。この反戦集会は毎週土曜日の夕方から夜にかけてピークを向かえ、何百人もの仲間が集い、声を張り上げてフォークソングを口ずさんだ。僕は、いつの間にかこの輪の真ん中でギターを抱えるようになった。寂しさを紛らわせるだけの、なんとも言えない中途半端な興奮と、人に見られることでの優越感が刺激となって、定まらない足元の震えを誤魔化していた。


 この夏リリースしたCDアルバム「記憶」の安藤君や、細井君などこの頃からの友人だ。

 
 将来がまったく見えない不安と、自分の事がさっぱりわからない不透明さは今日になっても続いている。

その日限りの刺激を追い求め、瞬間瞬間の中にある喜怒哀楽の中にやっとの思いで実在感を感じることで、30年も日々を重ねてしまった。


 “青い春”と書いて青春というが、誰かが言うように気の持ちようで人生そのものが、もしも青春だとしたら、僕の人生は“薄い青”の絵の具をたっぷりの水で溶かした容器を、無意識のうちに空中に放り投げたような荒唐無稽の時間の雫でしかない。


 京都に来ると、いつも決まってこの時間の流れの速さが、他の都市と異なっている何かを感じる。それはこの町の歴史や、建物や、方言や、人々の振る舞いの中にも存在するが、それよりまして僕自身の体内にある時の過ごし方の反省からくるコンプレックスが端を発した“何か”に違いない。


 路地の片隅にひっそりと静まる安定感なのか、この街を定期的に吹く風の重厚な自信なのか?


 長岡京の三菱電機をあとに市内に向かうタクシーの窓から、黒く山間に浮かぶ三日月をじっと見ていると、東京と同じ月なのに何故か僕自身が逆に覗かれているようで照れくさい。

 知らない町にいると、普段見慣れたものでも、まるで買ったばかりの鏡のように今の自分を鮮明に映し出す道具になることが多い。

 その度に何もかも鮮明にしようと試みた若いあの日を懐かしむ。