DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2013.12.20

第41号 月刊「美楽」2014-1月号

 『坂東玉三郎』
 玉三郎氏ほど、ストイックで勤勉な芸能者は見当たらない気がする。佐渡島の鬼太鼓(おんでこ)との共演の仕事を手伝わせてもたったことがあるが、この芸術家に完成という言葉もなければ、満足という言葉もなければ、ましてや妥協という言葉も存在しない。同世代を生きるものとして、フロントランナーというよりは、“永遠にたどり着けないゴール”のような存在である。
 芸の修練もせずに、ぶらぶら街を出歩いたり、マスコミに登場するのを楽しんでいる役者とは格違いどころか、別の世界で輝いているのである。





2013.12.15

第40号 エムケイマガジン2013年12月号

 エムケイマガジン2013年12月号




2013.12.05

第39号 大原美術館

 大原美術館に顔を出した。
 岐阜羽島に行く途中と言うと変なのだが、月に1回お邪魔する深層水マハロの打ち合わせに行く際に、新幹線の二時間ほど余分に乗り、岡山駅から倉敷に足を運んだ。
 ご存じのとおり、倉敷紡績の経営者だった大原孫三郎が友人の児島虎次郎の審美眼に、西洋の印象派の絵を集めるように依頼した。19世紀後半から20世紀前半までに、パリやブリュッセルの画廊を歩き回り、現在では誰もが、名画といわれる名画の数々をこの倉敷に持ち込んだ。
 飛行機もなかった時代に、児島は大原に何通もの筆をしたため、その都度、購入資金を送らせては、今となっては奇跡に近い美術品の数々を集めた。
 晩年、画家としても東京美術学校(現在の東京芸術大学)でも代表される腕前の児島は、この美術館の裏手の山にアトリエを建ててもらった。スポンサーと芸術家が一対になって、美術館というさらに大きな作品を描いたともいえる。

 1932年、アメリカのリットン調査団が、この倉敷を訪れ、大原美術館の名画の数々に度肝を抜かれたといわれている。そのせいかどうか、第二次世界大戦にとって、倉敷に空襲がなかったと言われている。日本の明治時代にパリのモンパルナスにモディリアーニや、ピカソ、マチス、モネ、マネなどの芸術家が住み、夜な夜なお互いの作品を批評し、賞賛し、罵倒したといわれている。その中に、日本を代表する藤田嗣治も才能のある人気者として君臨していたことを考えると、芸術に国境はないとこれほど痛感した日もなかった。
 足早に新幹線の駅に向かい、後ろ髪をひかれながら、もう少し留まりたいと思った。