DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2002.11.28

11月28日(木)「もう少し待てばよかった」と銀座の「平井」で唇を噛んだ。

 結論を出してしまった後に、一番大切な話を言われてももう遅い。年の暮れに、誤解が多くなるのは、いつもより判断が早くなるからだろうか。


 昨夜は「馬小屋」(恵比寿)で、一杯やっていた。オーナーの中島さんは、その世界では有名なオカマでTVコマーシャルに登場したり、お店の客も今はやりのタレントが顔を出したりと、この業界では人気者だ。


 彼らは、われわれ普通の男性?よりデリケートで、特に人間の心の動きには敏感で繊細、時として驚くほど直感がさえる。従って、普通は誤解を招いたり、いいづらかったりする言葉や会話を、瞬間的に相手の気持ちの隙間を抜いてさらりと言ってのける。言われた方も悪い気がするわけもなく、気持ちよく一本とられた感覚で、思わず微笑んでしまう。どこかにオカマであるが故に許されるぎりぎりの限界線を持ちながら、相手を引き込んでいく卓越したテクニックを持っているのだ。まるで、熟練工が、ミクロの穴に水を流し込むように。

「やはり、男は上の口、女は下の口なのよね」

「心も熱く、請求書も厚く・・・がこのお店の主義なの」

「1回試して御覧なさいよ・・・・??・?・?・」

などの名言はメモを取りたくなるほどである。


 以前の会社の上司と阿佐ヶ谷の中央線のガード下のスナックに通っていたことがある。この店も料理が美味しく(馬小屋さんも、物凄くいい味付けなのだ)、特に深夜に食べる玉子焼きが秀逸であった。或る夜、彼女(?)のしゃれた話を聞きたくなって1人でその店を訪ねた。6畳ほどの小さな店に、カウンター席が8席。扉を押して入ってみると、客は誰もいない。萩原健一(ショーケン)の「大阪で生まれた女」が小さなボリュームで流れていた。突然、カウンターの向こうで山羊が鳴くような声がしたので驚いてみると、ママが血を吐いていた。赤いTシャツが黒く染まっていた。

「救急車を呼ぼうか、ママ死んじゃうぞ」これくらいしか言葉が見つからなかった。

「御免なさい。こんなとこお見せしちゃって・・・・。恥ずかしいわ」

 店を閉めさせて、ママを横に寝かせるとしばらく血の混じった咳をしていたがアルコールの勢いと、吐きつづけた疲れからすやすや寝てしまった。

普段から濃めのアイシャドーが目の周りをパンダのように黒くしていた。

「わたし、お正月が苦手なのよ。両親ももう年だしさぁ。年に一遍のことなのに静岡に帰らなきゃならないの。そこの親族が私をすごく面白がるの。中でも私がすごい可愛がってる甥がさぁぁ、まだ小さいんだけど不思議そうな目で私を見るのよ。それが、少し苦手なの」

「先日は、御免なさい。静岡のこと考えてたら、つい飲みすぎちゃった」


 クリスマスが近づいた忘年会の帰りに、ケーキを持ってママの顔を見に行った。あの夜以来酒を断っているらしく、すっきりした顔で、いつもの様にグループ・サウンズを聞いていた。あの日と同じ赤いTシャツを着ていた。よく見ると、黒い文字(ロゴ)で「WE LOVE PEACE」と書いてあった。

彼らほど人間好きは居ないんだ・・・・僕は今でもそう思っている。


2002.11.22

11月22日(金)時間の束縛がかえって集中力を呼び、夕闇がばたばた夜になるのと競争しながら、ホテルの部屋で45分間の間に今夜のプレゼン用の企画書を書いた。

 それはDNAに関連したものだ。今、僕は遺伝子に興味を持っている。


 地球人口60億の誰もが、まったく同じものを持たない(双子以外は)この“人間の素に”魅せられている。ホームページの性格上、どなたがお読みになるかも判らない、妙に誤解を受けたり、世間を騒がしたりするのも無責任なので、この企画は改めて2003年の4月辺りに、皆さんにも詳細をお知らせしたいと思っている。


 一般的に集中力は、限られた時間の中で何かに取り付かれたように発揮されがちのように思われているが、実はそれは間違いだ。或る程度の自由な枠の中で、自らがコントロールして時間や、精神力や、創造性を束ねた方がいいものが生まれる。物理的に余裕がないと、その時は自画自賛して“輝いて見えたものも”あとでゆっくり確認してみるとただ“時間がない割りに、よくやった”という程度の出来栄えの物が殆んどである。


 モーツァルトは森の中を散歩しながらたくさんの傑作を書いた。三冠王の落合選手はベンチで打順を待っている間タバコを吸って、投手の投げる球種をイメージしていた、そうそうあのボンズ選手もガムをクチャクチャ噛んでいる。


 ものすごくゆとりがある時に、実は全体のイメージが出来上がるのではないか。モーツァルトがピアノの鍵盤の前に座って「さあ、曲でも書こうか・・・・」と思ったときには、すでに曲の全体の構成も、場合によっては細かなフレーズも、実はほぼスコアーが完成していたのではないだろうか。落合選手の場合も一球目のストレートは見逃し、2球目のカーブはわざと空振りし、3球めのカーブを右中間に打ち返す・・・・なんてところまでピッチャーの心理を読んでいたに違いない。


 リクルートを退社してから、約2年。ようやく今のフリーのプロデュース業にも馴染んできた。その間、殆んど人のお世話になりっぱなしだった。いつも何かに追われ、いつも何かを探し、いつも誰かに救われ、いつも誰かを探していた。「気楽な人生にみえるよ」と言ってくれる友人もいる。「好き勝手やってるね」という先輩もいる。


 仕事は、想像力の結晶である。元にいい商品かどうか、それから市場(お客様)の動きと、お金の流れ、組織のフォーメーション。


 もしこの2年が、人生において余裕ある期間の一部だったとしたら来年の仕事は、すでに頭の中で完成していなければならない。


2002.11.15

11月15日(金)午前3時。誰もいない知らない街の外灯の下で車を止めて「クエッション(新曲)」の仮歌を聴いている。

 作曲活動はスムーズだが、作詞の方が一行に進まない。詩を書くために頭の中を、やや感傷的、情緒的になるようにコントロールしているせいか理屈では判っているのに、気持ちの整理が付かないことが多い。中途半端な心の状態でいることが今の僕にとっては一番の“安らぎ”なのだ。


 誰も来ない見知らぬ町で、こうして音楽を聴いているとふいに川の音が聞きたくなった。川がゆっくりと流れるのを見たくなった。ただ“海に向かう”ということしか、それ以外は何も行き先もわからない、そんな単純な大きなうねりに心を任せたくなった。“自然な心の動きを”感じたくなった。多摩川の土手に着くと、何故か車のトランクから7番アイアンを取り出し、深いラフから向こう岸に向かって球を打った。闇の中で妙な力身が入らなくて、いいショットだった。


 アルファ・オメガの社長の佐々木君が早稲田大の卒業論文で「大脳生理学における右脳の活性化」をテーマにした。どうも彼の実証的な話によると小説や詩などの作家は執筆活動に集中できるような頭脳環境を作るのに10日間を要するらしい。日常の雑事から開放され10日。漸く、創造的なやる気と、“空白の中から空想の元素”が生まれるのだろう。しかし今の僕が10日間も、スケジュールをOFFにするのは不可能に近い。そこが職業にしていないものの辛さでもあり、趣味で音楽をしたものの贅沢な僻み(ひがみ)でも或る。


 「クエッション」がほぼ完成したので、2曲目の「記憶」の作詞をしている。愛はいつの間にか普遍化し、やがて日常の中で“給料”や、“買い物”、“食事”や、“掃除、洗濯”に姿をかえる。そうなると愛が芽生えた頃の、誰かに対する心の動きを思い出すのは不可能に近い。当時の面影もない相手も、同じ感覚だろう。二人とも姿形を変えている。そんな乾燥した毎日の生活を「これも人生」と諦めるのか、何か物足りずに再び「恋探し」を始めるのかは、人生に対する個人のエネルギーの量に掛っているように思う。


 「記憶」という歌は、少年時代・・・・・・“恋を恋したころの心“を探しに出かけるコツを歌にしようと思っている。


 川べりの靄の中に止めた車の室内温度が下がってきた。夜明けが少しずつ近づいている。僕の右脳もようやく動き出してきた。作詞のチャンス到来・・・・と思ったが、同時にすごい睡魔にも襲われている。左脳が睡魔と右脳が活性という妙なバランスの中で、高校生の頃のように深夜ラジオのスイッチをONにしてみた。


2002.11.14

11月14日(木)過去のコンサートの記憶の中で、一番輝いている夢が今目の前にいる。ポール・マッカートニーが「ハロー・グッバイ」をいきなり唄い始めた

 この曲をオープニングに選んだのは、この会場にいるファンのすべての記憶の扉を開けて35年前(1965年)から現在に引っ張り込むための“やさしい合鍵”なのでは・・・・・?


 今回の日本公演で、最後になるに違いない・・・・ということで会場は、主に50歳代の紳士、淑女で賑わっている。30年ぶりに再会した名古屋の安藤君も東名高速を飛ばしてやってきた。スクウェアーの宮本会長、ステファニー化粧品の一家社長にはたくさんのチケットを購入してもらった。キャッツの大友社長、ぴあの川口常務、YOKOのママ、戸張 捷さんの奥さん・娘さん、アップ・トゥーの松田さんは息子ずれ。B6ブロックは仲間たちでいっぱいだ。


 大きなイベントがあると、こうして懐かしい顔や、普段お目にかかれない友人と出会える。


 1994年の秋に福岡ドームでポールをプロデュースしたときのことを思い出している。スタッフ用に設置された食堂は菜食主義のポールの為に、ステーキも、ハンバークも、特殊加工の野菜や、大豆を原料にしていた。事前の打ち合わせでは「捕鯨反対運動」や動物好きのポールは“身に着けるものであっても革製品はNO”、システム手帳も革張りの物は持ち歩かないように・・・・こんなことまで徹底していた。


 ステージ上で、初老の紳士が「マイ・ウェイ」を歌っているのではなく、未だ若さすら発散してポールがおどけながら、はしゃぎながら、エレキを弾いている。音楽家というより会場に集まった全員の人生に何かしら影響を与えた人。その偉大さに、僕は胸を打たれていた。


 いつものように、退場時の混雑を避けるために早めにドームを後にした。まだ会場を出る人は一人もいない。ドームの入り口の本屋さんの店頭は、ポール・マッカートニーを特集した雑誌が棚いっぱいに陳列されている。ドームから溢れ出したポールと観衆の「イエスタデイ」が空いっぱいにこだましている。声というより、“思い出という時間の塊が”無数の風船になって、葡萄の房のようにキラキラと宙に浮いているようだ。


 「1966年産のワインでもあけよう」・・・・・・・・・・・






2002.11.08

11月8日(金)このところ急に夜の空が澄んでいる。日比谷通りの三田辺りの上空で三日月がくっきり浮かんでいる。東京の星の数も増えたようだ。

 のんびり冬の訪れを待っていたのだが、この2.3日のうちに突然冬が舞い降りてきた。僕の気持ちもなんだか無理な冬支度に慌てている。


 折からの不況もあって街を行く人々の表情も例年の冬より神経質で厳しい。商売を営んでいる人は売り上げが上がらず、心細く、寂しく感じられる年末を迎えた。社会全体がいらいらしているせいか、今朝も東京プリンスの前でタクシーとバイク便が接触事故を起こしていた。最近、バイク便の事故が増えているそうだ。タクシーと、バイク便。今のあくせくした世の中を象徴するような乗り物の同士の事故には見物人も慣れっこで少ないようだ。


 何かが足りなくて、ストレスが溜まっている。こんな不満を一蹴しようと橘君と朝まで大酒を飲んでしまった。「並木倶楽部」で彼の歌を聴くと家に帰りたくなくなる。気が付くと下したての薄いグレーのフランネルの上着のあちこちに赤いワインの染みが付いていた。彼のバラードの歌いまわしは本物の歌手より上手い。来年あたり、彼のCDでも作ってみよう。


 銀座にカラオケ専門のお店が出来たのは今から15年ほど前になると思う。それまではアフター(クラブが閉店後のホステスとの2次会のこと)というと、赤坂あたりのスナックにいき、女性の人生の事情やら、だめな客の噂、店とのやり取りなどホステスと客の領域を超えて話をしていた。


 僕のように、会社が銀座のど真ん中にあって、今日は8丁目、明日は7丁目などと毎晩のように出没する客は身内の扱いになってしまいいい残念ながらホステスとは「相談相手」になることが多い。


 深夜から朝にかけての時間がゆっくり、まったりながれ、ふと時計は3時を指している。話に疲れてくると、恥ずかしながらそこの店にセットしてあったのがカラオケ機材に目をやる。そっとマイクを握り、他の客の視線を気にしながら小さくなって唄っていた。「そっと、おやすみ」がその夜最後の曲だった。


 カラオケ・ルーム専門店が出来てからホステスとの粋な会話より、客同士がお互いに自己主張をバンバンしながら得意の歌を披露するケースが増えてきた・・・・・・と嘆くホステスの声をよく聞く。毎晩のように、客に付き合う(アフター)のは大変な商売(肉体労働)だが、売上目標を掲げ、ましてや不況で客が少なくなってきた繁華街の高級クラブではそう簡単にお誘いを断るわけにも行かない。そしてアフターの一番の苦痛がカラオケ・ルームという名の密室で、酸欠状態となり、耳の鼓膜が麻痺するような大音響で、こってり油の沁み込んだツマミを食べながら、外が白んでくるまで下手な歌を聴くことだろう。


 よく考えてみると、この状態でホステスをものに出来ると勘違いする客も見込み違いなのだが・・・・。上手く客を捌けないホステスも会話の技量を問われている気がする。



2002.11.03

11月3日(日)山田洋次監督の「たそがれ静兵衛」を見てきた。日本映画しかも時代劇は何年ぶりだろう。

 物語は江戸の後期、現在の山形県で一つの人生を終えた実直な下級武士の愛とライフスタイルがテーマである。

 今の自由な時代では考えられないほどの封建的な制約の中で生きた一人の武士(真田博之)。彼を支える生真面目な女を役者として大きく成長した宮沢りえが演じる。山田監督が「寅さん以来作り上げてきた」日本人特有の美しい心の動きを静兵衛に託し、それが東北地方の風景美の中で包みこまれる。物語は子供3人を残して妻に先にいかれた、シャイな武士の貧しい生活(家族愛)と武士道(人情)がベースである。それに、男と女の恋愛感が絡み、更に価値観が大きく変わろうとしている江戸時代後期のドタバタ社会の中でこの武士がヒーローになっていく過程を描く。会話のあちこちに散りばめられた当時の男と女の心の持ち方が、見るもの全員に”純朴“と“純愛”の清さを久し振りに教えてくれた。この映画は、必見のお勧めである。


 映画といえば、今年の前半は韓国の映画会社との接触やら、アメリカものの投資の話を随分たくさん検討した。ソウルに足を運んで、空撮用の特殊カメラの売込みやら、バブル・マネーで設立して立ち行かなくなった制作プロダクションの建て直しやら、様々なマター(事実)を確認するために何度も訪韓した。キム・ユンジンさんとも語り合った。あれは、一過性の・・・ワールドカップ熱に犯された単なる思い付きの興味だったのだろうか?それとも、この数ヶ月間の間にさらに悪化した日本経済に映画のスポンサーとしての“期待”すら失われてしまったのだろうか?最近、めっきりこの手の投資話を聞かなくなってしまった。


 藩のために、子供3人を残して決闘に出かける「静兵衛」に切ない感動を憶えた自分の姿を思い出すと、最近どうも「いやいやでも決断しなければならないある種の義務」を経験することが少なくなった。逃げ場のない究極の判断、そんな追い詰められた瞬間を“リスク回避”という言葉で消化していくのが、果たしてこの年齢の男にとって、本当に幸せなのだろうか・・・・・・・何処か侘しい、寂しい気がする。


 時代劇は背景や人間の姿かたちを変えることで、異なったアングルから使い古された“本物を提案”できる魅力がある。昔からある当たり前のことが僕に“新しい反省”を促してくれる。時代劇ブームが、来年は爆発するするだろう。