DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2003.08.20

8月20日(水)増上寺の木々の枝に隠れて、アブラゼミや、ヒグラシが「秋が来るよ、夏が往くよ」と鳴いている。


 仲間から外れた1匹のクマゼミが、鳴くのに飽きたのか冷え冷えしたプールを越えて、ホテルの窓から部屋の中に飛び込んできて、風を入れるために束ねてあったレースのカーテンに停まった。


 気象庁の予報があまりに大きく外れるので、誰もが半信半疑で新聞の天気図を見ている。梅雨は明けたのだろうか?ここのところ10月下旬の気候が続き、セーターを羽織っている女性も見かけるほど。


 客人から携帯メールが届き、盆明けの5、10日ということで、首都高速の渋谷線も大渋滞と・・・・・いらいら。


 さっきの蝉は一服したのか、来たときより涼しげに羽の回転数を上げて、どんよりした雲の向こうの積乱雲を見つけに、勢いよく飛び出していった。

「少し、太ったかなぁ・・・、こんなに冷えるんじゃ、夏痩せする暇もないな」
「実家に帰って、気を使っちゃってさ・・・。おまけに子供が、流行の病に罹っちゃってね、」

 今年の夏は、カレンダーだけがただ刻々と日を刻み、「花火大会」「盆休み」と温度や湿度や季節感とは無関係に、暦上の定例イベントだけを静かに消化していった。

「君って、季節外れの蝉みたいだね。」
「何故?いつもノー天気だからかしら」

「違うよ、声はすれども、何処で泣いてるか分からないし、一見元気そうだけど、なんか寂しそうじゃない?」
「そうかしら、もしも私が蝉だったら、あなたは何かしら?」

「僕?増上寺の桜の木の枝だよ。いつ生まれてくるか判らない君を待ってるんだ」



2003.08.15

8月15日(金)夕焼け総合研究所の顧問をお願いしていた福田勝一氏(元警視総監)が他界された(写真参照)。


 奥様が洗い立ての白いオープン・シャツにうっすらとかいた汗を、ゆっくりと扇子で扇ぎながら、ホテルの玄関に向かって飄々と歩いてこられるのを僕は懐かしく思い出している。

「僕は、世渡りがへたな、ただの素浪人ですから」

 福田先生に、初めてお目にかかった最初の一言が、何度も何度も鮮明に耳の奥でエコーしている。(いいなぁ・・・・・お年寄りって)

「先生、今晩は先生の分も合わせて、二人分の茶蕎麦を頂きますので」
「どうぞどうぞ、私は少食ですから」

・・・鼻声っぽい先生のそんな声が、聞こえた気がした。


 本当は、今日、昼食を取りながら、ゆっくり先生とお話をする予定であった。
 この夏の増上寺は涼しくて、木陰の下をゆっくり二人で散歩だって、出来たのに・・・・・・。




2003.08.13

8月13日(水)久しぶりに原宿・表参道の交差点に近い中谷 彰宏さん(今や先生と言った方が善いかなぁ)の事務所を尋ねた(写真参照)。


 この事務所は以前から何かの縁があって、母の友人だった向田邦子さんのお宅や、格闘技プロデューサーでも有名な百瀬さんの事務所があるマンションだ。


 あの夜、僕は頭の中の想像力をフルに使い果たしたのを憶えている。打ち合ったボクシングの試合の後の爽快感を記憶している。

「近く、独立しようと思ってるんですよ。東さんどう思います?」
「賛成だなぁ。中谷さんなら十分食っていけますよ。正直言って、遅いくらいじゃぁないですか」

 前から、彼の圧倒的な才能には驚かされる一方で、当時お願いしていた雑誌フロムAのテレビCMのコピーは出色の作品だった。しかも、僕が苦手にしている、代理店のクリエーターによくある、何処か偏屈なイメージもなければ、専門馬鹿に見られる妙なこだわりもない、そして何より引かれていたのは彼のプレゼンテーションのときの色気(・・・そういう意味ではなく男の仕事師が放つオーラ)と一等星のような明るさなのだ。
(随分花のある人だな、色気と、知性と、肉体のバランスが凄くいい・・・・・・)


 そんな魅力に惹かれていた彼からの、質問の答えには、迷いもなく一つの”答え”しかない。オフコースである。


 赤坂の支社のビル地下の溜まり場になっていたバーで、その夜は映画の話や、男と女の話、広告の話、メディアの話、中谷くんの話の一つ一つが、星の一片の先端のように光、僕は彼の感性のシャワーを浴びていた。心地のよい時間だった。

「東さん、今日は何ですか?相変わらず変わりませんね」
「中谷先生もね」

 あれから、10余年。目の前の中谷さんは、メディアを使う魔術師から、日本を代表する“メディアそのもの”に変貌した。ライバルというには、あまりにも先に僕を、走りすぎてしまった彼は、今でも僕の自慢の友人の一人でもある。





2003.08.10

8月10日(日)埼玉の別名格闘技アリーナとも言われる「スーパー・アリーナ」でプライドの第一試合が始まり(PM3時)、そのころ橘君が東京湾花火の準備に追われている(写真は昨年の花火です)。


 例年この時期は台風の来襲も在って、花火大会のスタッフと風向きや、雲の量や、東京湾の波の高さが気になって、いつもひやひやするのだが、今年は丁度、昨日関東地方を台風が通過し、ギラギラするような夏の太陽が顔全体に照り付けている。


 埼玉アリーナでは、桜庭選手の復活を願うファンの暑い行列が並び、関係者専用の駐車場の入り口には、どこから嗅ぎ付けたのかマニアックなファンが(ありがたいお客様であるが)受付に横付けされる車の中を覗き込んでいる。

「東さん、どうですかねぇ?今日の盛り上がりは?」
 アントニオ・猪木さんの側近の伊藤さんが、藤田選手を引き連れて車から降りてきた。
「やっぱり、日本の選手が試合をリードしないと、寂しいですよね。桜庭君の出来が凄く良いらしいですよ」


 今までのイベントとしては、一番知的で、芸術的ではないかと思われるような華やかな仕掛けのオープニングで、「プライド27」は始まった。しかし、娯楽的なのはここまで、・・・・・いわゆる本物志向の格闘技ファンは、どちらが食われるか分からない“ガチンコ”に一瞬も目を逸らせない。まるで、闘牛場のように見るだけの者の気楽な余裕を、戦士たちの気迫、狂気がものの何秒かで傍観者の殺気へと変える。


「あと3分で始まります。」
 クルーザーのデッキの上で、昨年眺めていたくもりのない肌色の満月と、台風の直後の白く澄んだ今年の蒼い月を比較している。
・・・・・去年はあんなに胸の底がトキメイテイタのに・・・・ツライナァ

 橘君が招待客のVIP2回目のアナウンスをしている。
 パォオオオオン・・・・・・・・・一つ目の花火が上がると、何秒か後に湾岸で見ている何十万人の見物客の歓声が、芝浦あたりのビルに反射して、こだまのように東京湾の波を揺らした。


 年一回、一瞬の内に消える夏の空の思い出と、東京というメガロ・ポリスの高層ビルの無数のネオンの浮遊感が奇妙なバランスに感じられる。
・・・・・とそのとき、浴衣の袖にはさんだ携帯電話がシェイクした。


「東さん、シウバに桜庭がやられちゃいました・・・・????」
 埼玉アリーナの観衆の悲愴的な叫び声に混じりながら、リングサイドに陣取った歯科医の飯塚先生の声が、途切れ途切れに聞こえた。


「東さんも打ち上げ花火みたいな人生ね」
フゥット明るくなった波間から、誰かが、そう言ったように聞こえた。






2003.08.01

8月1日(金)飯山コーポレーションの勝山社長のゴルフ・コンペのご招待で軽井沢に来ている。この街を最初に訪れたのは、確か20数年前の冬に近い秋だったように記憶している。


 前の会社の同僚と4人で、まだ完全に繋がっていなかった関越自動車道路を抜けて、地図を開きっぱなしにして(ナビゲーションなんてない時代)、迷いながら、しかも深夜に車で何時間もかかって辿り着いた。
 霧と、雨で視界が狭くなり、心細い思いで長時間運転したせいですっかり疲れきっていたのだが、あの頃はまだ若くて体力があったせいか、ログハウスで30分仮眠しただけの徹夜に近い状態で,翌朝いきなり24ホールをプレーした。


 それから何度か軽井沢を訪れるのだが、この街の記憶はいつも峠の霧のように曖昧で、ぼんやりとした透明感のみが残り、ただの過去の時間の断片になってしまう。


 さだまさしさんにしては珍しく、ロック調で書かれた歌の中に「軽井沢ホテル」という僕の好きな歌がある。完璧に軽井沢の情景を表現した詩を、あの澄んだ声でシャウトするサビが、突き刺すような説得力を持っている。

「女は自分が不幸だと思ったときに、別れた男を思い出すと聞いた・・・・
それならばずっと、この恋のことは、思い出さずにいられたらと・・・・
僕は、祈ってる・・・・・・軽井沢ホテルで別れた・・・・」


 浅間山を抱く標高1000メートルのこの街は、亡くした恋を完全に葬り去るのになぜか向いている。酷く淋しいのだけれど、さっぱりとした清清しい新しい風が流れている。それが複雑な気分を洗浄してくれるのは何故だろう。


 一般的に、失恋(ロストラブ)の場合、女性の方が淡白で、なくした恋をいつまでもくよくよ思い出すのは男性の方である。たんに喪失感だけでなく、プライドが傷つけられたり、独占欲を刺激されたり、ロストの中身が感情的な分だけ尾を引くからである。


 軽井沢は、どちらかというとオトコの癒しの場所のような気がする。