DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2006.03.29

第16号「バンコック・パーティ」

「何処か、海外でした?」
「スミマセン、お邪魔するのがおそくなりました」
ほんの少し握力が、弱くなった気はしたものの、並外れた精神力は健在だった。
「あの鬼塚の代々木みたいな、派手なのをやりましょうよ」
「そうですね、退屈な試合が多いですものねえ」
病に倒れて入院していた先代の金平会長を、見舞いに訪れた日のことを、思い出していた。
確か、お土産に“軍艦マーチ”のなるオルゴールを持っていった。


「ヒガシさんも、ご存知の通り、“うちの家は本当にタイにお世話になってるんです。海老原とキングピッチ以来ですから・・・・30年以上のお付き合いですよ」
タイ陸軍総司令官のムアングマンニー氏主宰の晩餐会には、元首相のタクシン氏の親戚も在籍、先代から続く協栄ボクシングの金平桂一郎氏の東南アジア諸国との“熱い関係”には驚かされた。

昨日の日記にも書いたように、タイの世界チャンピオンを日本に招聘してタイトルマッチを行うのは、ただ単にファイトマネーを積むだけの契約ビジネスでは済まされない。“国家的ヒーローをお借りする”という政治的な義理や人間的な恩を感じてもらわなければ、プロモーターとして二流なのだ。

「今度、ロシアの選手をヒッパッテきますから・・・・・・これからの格闘技はロシアですよ。今、桂ちゃんが修行に行ってますので・・・・・・」
2回目に、病室にお邪魔した時、やや小さくなった顔でクールに事業意欲をのぞかせていた。

まるで自宅にいるようにリラックスして、焼酎に頬を赤らめた現会長の姿が、何処か先代に似てきたのを感じていた。




2006.03.28

第15号「ラジャダムナン・スタジアムは、日本の国技館」

河向うのペニンシュラ・ホテルで食事を済ませた後、車とバイクと自転車の混雑をジグザグにツイストしながらルンピニー・スタジアムにムエタイの観戦に出かけた。

タイの国技でもあるムエタイは、王室系(陸軍系)のラジャダムナンという組織と、警察系のルンピニーという組織に分かれている。
いずれもランキングを持ちチャンピオンは国宝級の待遇を受けている。言ってみれば我が国の相撲と同じようなもの。・・・・・(外国人がこのムエタイの頂点に立つのは至難の業であるが)

馬券売り場のような人混みの中で、ダフ屋らしき女性からリングサイドのチケットを4000円(定価は1000円程度)で購入。中学生ぐらいの場慣れした係員の案内で席に着いた。リングでは、前座の試合を展開中、既に、肘うちで眉間を裂かれた選手が、相手の頭を抱え込み、わき腹(レバー)を膝蹴りで連打していた。賭けの胴元が、双方のリング・サイドに陣取り、攻撃に合わせて声を上げて応援する。・・・(日本でもこの応援の仕方を真似ると良いかなぁ)

どんなに、打たれても顔を歪めない。どんなに出血をしても、動揺しない。太ももが青く痣(あざ)になってもキックを続ける。この戦士たちは意識が無くなる寸前まで、相手に立ち向かう。この白熱した死闘に自らの体温を上げた数千人の観客で、会場の温度は40度近くになっている。

ムエタイの歴史は、タイの歴史を織り込んでいる。アユタヤ王朝時代、隣国ビルマ(ミャンマー)による侵略の危機の中で、素手で敵を打ちのめす為に、国家レベルで教育普及された武術。かつて、捕虜になった味方を釈放する為に、たった一人でミャンマーに殴りこんだ英雄(ランボーだね)もいたようだ。

「全身に毒を持っている」と言われるこのムエタイ。毒の抜かれた、我が国の男性にも是非お薦めしたいスポーツ。
頭の中ばかりで物事を整理することに慣れすぎてしまった若者たちよ!たまには、“痛みや”“出血”を確認しながら、自分の肉体が生きていることを感じるのも悪くないと思うのだが。
神様の創ったルールに従って・・・・・・。





2006.03.27

第14号「サンド・ベージュの河辺のオリエンタル・ホテルのバルコニーから」

タクシン首相(愛国党)の選挙での再任を拒否するデモが、バンコックのあちこちで頻発しているという新聞の記事を読んで警戒していたが、空港からホテルまでは以外にスムーズだった。

部屋のバルコニーから、300メートルほどの河岸を行き交う帆船のようなホテルの艀を見ている。
一般的に文明は水辺で育まれると言われるが、ソープラチャットの水を媒介にして伝播したのは武器や様々な海産物や染物ではなく“タイに住む人々の生きるエネルギー”。
東南アジアの河につき物の茶褐色の“水の帯”は、まるでいろいろな性格を持った人間の様に、流れる街によってイメージが異なる。この河はまるで“象の体内に流れる静かな静脈”のようだ。

ククリット氏と言う作家の名前が付いたこの部屋を担当する男性が、“両手を合わせて”ご挨拶。
あわててチップのバーツを探したが、まだ貨幣価値がピンと理解できていないので、どうも豪勢に振舞ってしまったようだ。・・・・(特に、選挙後はバーツが高騰するなぁ・・・・)

リビングのテーブルに置いてあったバナナや、オレンジや、マスカットなどの果物を少しずつ頬張ってみる。
熱帯性の果実独特の甘い樹液が、喉を潤してくれる。
飛行機で充血した目の上に、冷えたタオルを被せていると、バルコニーの下から船の汽笛が聞こえた。「ヒュー・・・ヒュー」という竹笛のようにも聞こえる。どうも夕方のラッシュが始まり河が込み合っているらしい。

バンコック(晩虚空・・・これは当て字)、携帯電話のコール数が少ないので、久し振りに耳が休んでいる。




2006.03.13

第13号「やきそば礼賛」

“焼き蕎麦”と書かれるより、やはり“焼きソバ”の文字の方が肉感的で、上手そうに見える。
しかも、ここの焼きソバは、小海老(桜海老)で風味を出し、上質の豚肉(脂身と赤身のバランスが3:7)でフライパンで滾る(たぎる)ラードとの甘みを調整し、それでも付きまとう“油のしつこさ”を歯と歯茎の間で爽快に持っていくよう、最後にキャベツともやしを加えるのだろうか?

しかし、色彩的には所詮ソースの“黒土色”である。そこで、昔懐かしい赤いウインナーを乗せる。そう小学生の頃の運動会の弁当のスター。それも8本足の蛸の数刻んでもらい、それにあわせてを8匹を植栽のように・・・・・・・。

車が隅田川を渡る頃に、座席に置いた包みの中から、仄かに“青海苔”が匂い始める。すると不思議と明日元気で起床できそうな気がするはずだ。

モルガンの清水さんとひときわ経済談義を済ませた夜は、私はいつもお土産に“焼きソバ”をお持ち帰りいただく。一方私は、堪えきれずに、朝を待たずに、寝る前に食べてしまう。




2006.03.04

第12号「この朝の桜島は、黒から緑に色を変える」

作家の司馬遼太郎は、この桜島のことを人はもちろん、歴史すらその指紋さえ残せない・・・・・と書いている。

チェックインしたのが夜になったせいか、ホテルのバルコニーから桜島の陰を懸命に捜したが漆黒の錦江湾と、墨のような曇り夜空の向こうに扇形の輪郭さえ見えなかった。
時折、煌く星を頼りに、部屋のソファーに横たわって窓の向こうの桜島を捜していたが見えなかった。
和室の布団で肘をついて、しばらく煙草を燻らしたが、しかし、窓前面に広がるはずの姿は、とうとうその夜には掴めそうになかった。

今回は、父と母と少しは話をしようと思い、目覚ましを午前5時に仕掛け、朝一番のフェリーで垂水に向かおうと思った。上手くいけば、船のデッキから朝焼けを背景に真っ赤な桜島が見えるかもしれない。
うとうとしている内に僕は夢を見ていた。

ほんの短い夢は、白いランニングシャツに、白い短パンツをはいた少年時代の私だった。渚に打ち寄せる波の高さを確かめるようにずっと身動きもしないで、足元の砂を見ていた。少年の向こうで、夕陽が落ちようとしていた。少年が、引き潮を数える度に砂の中に沈んでいく。

林檎色の空が染み出した絵の具のように、やがて流れて垂れて、海を朱に染めている。音楽が流れている。ゆったりとしたフレーニーのオペラのようにも聞こえるし、昨年創作した「記憶」という歌のワンフレーズのようにも聞こえる。誰も居ないのに、誰かの気配がしている。

うつらうつらしていると、携帯電話の目覚ましが鳴った。小刻みにしか眠れなかったせいか、朝7時を過ぎていた。カーテンの隙間をこじ開けて、真っ青な空がシーツを透明にしている。

見たことの無いような清清しい桜島のなだらかな稜線が、あの日の少年の蒼い肩のように思えた。

墓のある垂水に向かう船に乗るころに、きっと彼は若葉色に変わっているだろう。