DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2012.07.23

第29号 日本航空学園の広告

 日本航空学園の広告を創りながら、やはり「モンゴル」だと思った。
 気分的に、訪れてみたい国だったモンゴルに出掛けたのは、大相撲がきっかけでもないし、チンギスハーンの映画を観たわけでもないし、ちょっとした胸騒ぎを感じたからである。

 月刊「美楽」の中に、1ぺージ程度の企画で、アジアの情報を提供すべき義務があると思い、ウランバートルへ出掛けた。 
 そのときにお世話になったのが、現在のモンゴリアンエアラインズ社の日本支社長のガルタ氏。ガルタ氏の紹介で結局は、日本航空学園の広告を手がけている。
 日本の航空会社は、考えてみれば、どこで人材を確保し、どのように人材を教育し、また人材は何が機会で転職したり、退職したりするのか、全く知らなかったのだが、この広告を創りながら、航空業界全体に関しても、学ぶべきものが多かった。

 国家の経済力、それに伴う文化、或いは、メディアとしての宗教、そして、人材の流通。これらは、どんなにインターネットが発展しても、交通インフラが伴わなければ、意味を持たない気がする。
 因みに、日本航空学園は1932年創業。今年で80年目を迎える。
 日本は、その間に2つの大きな戦争を経験し、船同士の戦いから、飛行機での戦いを通し、いまや核兵器と情報戦の時代になった。そして、日本においては、航空業界は平和な時代の象徴として、貿易や娯楽にのみ人材を必要としている。




2012.07.16

第28号 横浜倉庫の小紫さん

 横浜倉庫の小紫さん(社長)とは、かれこれ十年を越えるお付き合いになる。僕と彼には、現在でも誇れるある商品をプロデュースした実績がある。それは、いまやコンビニエンスやスーパーで当たり前のように並べられているいわゆる「キャラ弁」(キャラクター弁当)第一号の製作者だからである。

 このHPの読者の何人かは、記憶されているだろうが、今は亡きプロレスラー故・橋本信也選手の「びっくりカツどん」は数百万食を売り上げ、おそらくこの数字は、今日でもナンバー1であると思う。


 横浜倉庫の広告つくりをする上で、倉庫の中身は、在庫ではなく、未来に向かうべきものである、というコピーを持ち出すとき、ふと思ったのが、小紫さんらが日本の倉庫業の新しい価値を生み出してくれると感じたからである。




2012.07.02

第27号 ホーチミンの戦争証跡博物館

 ホーチミンの戦争証跡博物館を勉強しようと思った。

 朝、目覚めるとホテルは窓で仕切られて、快適なのだが、窓の下のホーチミンは、インドシナ半島独特のスコールが上がったせいで、かえってむしむしとしているのだろう。

 ホーチミンの戦争証跡博物館は、何故、「記念館」ではないのだろう。博物館というとどことなく、片っ端からモノを集めてきて、それを歴史や科学や思想で軸を作り、ただ並べたようにしか思えないが、記念館という表現を使うと、心に記すべき、という意味合いがあり、ぴたりと当てはまる。

 南シナ海に沿って、長いものように伸びたこの国に、資本主義国と社会主義国が入り込み、南北に分断し、結局のところ民族戦争という名の内乱が演出された。
 いってみれば、ヨーロッパの国々もそうであり、北朝鮮と韓国もそうであり、パキスタンもそうであり、日本も同じように2つに切り離されていたかもしれない。

 戦争証跡博物館は、たくさんの写真で構成されているかのように思う。世界のありとあらゆる博物館の中でも、この博物館は写真を中心に構成されている。その中にあって、一番時間をかけて見入ったのが、さわだきょういち先生の作品である。

 いまや時代や、動画から静止画に変化してしまったが、シャッターを押し続けるカメラマンの感性の集中は、フィルムを回し続ける動画の情報量と比べてもやはり怖いほどの殺気を感じる。
 
 一発の米兵の弾丸が、農民の頭蓋骨を粉々にしていく。無数のナパーム弾が一瞬にして、街すべてをケロイド状に焦がす。雨のように散布された枯葉剤が数え切れないほどの奇形児をつくり出す。利益を生み出すために、犠牲になるのは、現在でも同じ弱者なのである。