DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2003.05.31

5月31日(土)徳田虎雄先生の次男 毅氏の結婚式が盛大に行われた。帝国ホテルは、政界のジュニアーの出陣式さながら大物代議士や徳州会関連の業者、文化人で埋め尽くされていた(写真参照)。

 それはまるで父親の息子夫婦の為のお披露目のようで、新郎新婦にはさぞかし迷惑なセレモニーかと思いきや、二人が淡々とその役割をこなしているのに驚かされた。結婚式がどんどん簡素化され、イージーになっていく時代にあって、久しぶりにそれらしい粛々たる儀式の始まり。

 そしてさらに僕が驚かされたのは、新郎の父の涙であった。

 「皆さん、新郎新婦の入場です」という司会者の言葉とともに新しい夫婦が扉を開けて入ってくる。入り口のすぐそばの新郎側の席は大家族の徳田家のテーブル。そのテーブルの真ん中で、主人公の座をを息子に譲った徳田先生が奥様と並んで座っている。1000人もの招待客に祝福の声をかけられながら、ウエディングソングがゆっくりと流れて、媒酌人の亀井静香先生に導かれて、二人がゆっくりと30メートルも在ろうかと思われるステージの方へ手を組みながら歩いていく。

 会場には石原都知事をはじめ、塩川財務大臣、野中先生、氏家代表(日本テレビ)など招待客の顔ぶれは日本のVIPが勢ぞろい。

 地鳴りのような拍手の中で僕は、徳田先生と、奥様の姿ばかりをじっと見ていた。

 あれは、1996年の夏のことだった。当時まだ体が元気な栗本 慎一郎先生から深夜にもかかわらず突然携帯電話を頂いた。

 鹿児島からの電話で、どうも父と天文館あたりのクラブで一杯やっているらしかった。その受話器を突然取り上げたのか、徳田先生だった。

 「東君か、そろそろ下らん仕事をやめて、政治をやらんか。政治は楽しいぞ。鹿児島の男だったら少しは国のことを考えんか・・・・????」

 この素っ頓狂で、直接的な話し方に僕は好感を覚えた。荒々しい中に何処かやさしさを感じた声だった。

その頃まだ、遠慮深い、繊細で知的な会話に何処か憧れていた僕には、その方言交じりの“あったかなだみ声”が“雲一点ない真っ青な薩摩の青空”のように聞こえた。

 その冗談とも思えない依頼を、一応お断りして半年後、僕は徳田先生率いる自由連合の選挙本部で、選対の宣伝広報のいっさいを任され、津波のように押し寄せる候補者の写真の撮影や、PRプラン作りに明け暮れていた。

 この数字やデータが欺瞞的にすべてを決定してしまう時代の中で、人材の夢や意欲を最優先して、候補者を選別し、信用していく先生の気持ちが好きだった。

 選挙は予想をはるかに超えて大敗した。深夜を回る頃、TVが他党の当選者を次々に発表していくのを事務所の片隅で聞きながら、僕は4週間ぶりに荷物をまとめていた。誰一人、先生の”馬鹿でかい希望”に耳を貸してくれないのか?そんな憤りを覚えていた。

 良く人は勝ち組についていけ・・・・・。運は強い人の味方をする・・・・・。

とかいうけれど、必ずしもそうとは限らない。性に合わない仕事や人とはどうしても一緒できない・・・・好きか嫌いかという感情を優先しなければならない瞬間もある。それが思想であり、哲学であり、趣味であり、個性なのだ。

 新郎が席に着いた瞬間、会場に南の島のスコールのような大きな拍手が鳴り、その瞬間、大きな白いハンカチーフを背広の内ポケットから取り出し、眼鏡を外した徳田先生がうれし泣きをしていた。なんとも先生らしい豪快な、やさしいうれし泣き、男泣きの涙だった。まいったなぁ・・・・。

 素敵な医者、・・・・いや親父だなぁと会場の誰もが思っているに違いない。




2003.05.22

5月22日(木)Y氏と新橋の汽車の前で待ち合わせした。14年ぶりの再会である。

 わざわざ待ち合わせにこの場所を選んだのも、東京という街の景色がこのところ思いのほか変化し、電話ですぐに何丁目のどこ其処という約束のスポットがすぐに思い付かなかったからだ。



 あの頃は、毎晩のように赤坂の「楽屋」というカラオケ・スナックに立ち寄っていた。いつも、リクルートの仲間を連れて午前様。小さな8畳くらいのスナックに深夜になると顔馴染の客が、ひとりふたりと集まり、歌い慣れた持ち歌を唄い、まるで親戚か同級生のようにお互いの身の上まで分かり合っていた。夜毎深夜だけポカリと浮かんでは、消える“幻の村”、そんな店だった。



 深夜の2時を過ぎる頃になると、僕はこうした気の置けない仲間の集団から不意にはずれて、いつもカウンターで肘を折り、虚ろに飲むのが好きだった。意外と醒めた酒を飲むのが好きだったし、ポーズでもあった。同じ顔の仲間と、いつもの変わらない話題、安心できる大きな笑い声、それが居心地の良い夜も在ったが、時にひどい焦りと、自己嫌悪の美味くない酒に変わる時間帯であった。



ある夜、その日の自分の仕事に納得していなかったせいもあって、整理できない頭と気持ちを落ち着かせるために、一人で店を出て、すぐ隣の裏手にある神社の欅の下で月を見ていた。遠くに、一ツ木通りを大声で笑いながら家路に着く友人の笑い声が聞こえていた。

「お兄さん、何を寂しそうに白けてるの?」

振り向くと、満月の明かりが古くなったスポットライトように、Y氏の桔梗のような濃い紫のドレスを映し出していた。

「僕の居る場所がよく判ったね?銀座はもう終わったの?」

「楽屋に行ったら、さっきフラフラッて出てっちゃったよ。東さん裏じゃないか」っていうから・・・・・

まだ二十歳そこそこのホステスがクラブの席に着くのは、当時の僕にとって可能性のある人材が金と男に汚されていくのを放置していくようで、ゆっくりと酒を飲める気がしなかった。Y氏はそんな中でも最も傷つきやすいタイプのホステスに見えた。



少し冷たく感じられる神社の石段に座りながら、僕は眠くなりかけていた。
 「北海道に帰るんだろう?水商売は長くやる商売じゃないからね」

「銀座って、やっぱり合わないんだなぁ。ママが気にしてくれればくれるほど怖くなってきたの。」

「残念だなぁ。せっかく店の担当が決まったと思ったのに」・・・・と言いながら僕はやれやれという安堵に似た気分に浸っていた。
 
 あれから10数年がたっただろうか?

立派な主婦(大人の女)になった君と、相変わらず明日が見えない僕が汽車の見える喫茶店で、ミルク・ティーを飲んでいる。



「君の方が、余程僕より大人だったねぇ」

あの夜と同じ不思議な安堵心を、憶えていた。

「まさか、銀座に帰ってくるんじゃないだろうね?」

「どうして?・・・・絶対に帰りませんよ・・・・。あの街は足のない女性と、気の抜けた男性がフワフワ浮いているだけでしょう?」

「まるで風船だよね。“人の欲望と失望が膨らんで、たくさんの風船が飛んでるんだよね。」

「風船ほど、しっかりしてないでしょう。“紐は紐でも、頼りにならないでしょう?」



確かに上手い表現だと苦笑してしまった。

新橋の居酒屋のネオンと提灯が、いっせいに付きだし、しっかりとした足取りでY氏は、家路に向かった。


2003.05.19

5月19日(月)何年ぶりのことだろう“昔の人と再会”シリーズ大物編の一人、馬場まこと氏がホテルを訪ねてくれた。

 朝から、何か胸がわくわくしていた。最近右脳を交換しながら話をする機会がめっきり少なくなり、納期だの、予算だの、数字が絡んだ言葉のやり取りばかり日々だ。もともと頭の中に隙間が足りない、キャパの足りないせいもあり、最近“イメージを溜め込む余白”がめっきり少なくなったのを感じている。しかも、厚手の本を読まない怠惰な生活。

 「こんな状態できちんとした話が出来るかなぁ?」


 馬場さんは以前の会社の宣伝部の時代に、2本のテレビ・コマーシャルをお願いして以来、僕の最も気になる、尊敬している広告クリエイターの一人だ。

 「最近胸を打つ広告が、CMがまったくありませんねぇ」

 「TVというメディアに期待する気持ちを持たないクリエーターばかりだからね。それに、子供っぽい連中の、稚拙なCMばかり目に付くね」

 「子供のクリエイターで広告効果が在るってことは、見る方の感性のレベルも子供っぽくて、質が下がっちゃってるんですかねぇ」

 「要は、届いてないんだよね・・・。伝わってないんだ。伝えようとする意欲もないからね」

「ただ目立てばいいってもんじゃないですよね。」


1991年の夏、僕と馬場さんはニューヨークのフィルム・スタジオで1枚の写真を探していた。たった1つのシーンを探しに1週間ほど滞在した。それは、アメリカ合衆国の若き英雄、故ケネディ大統領が子供を抱き上げる写真だった。

“この人がいると、周りの人が輝く。この人は、磁石なのかもしれない”

この凄いコピーにあう絵は、笑う大統領と、笑う赤ちゃんのコントラストで表現するのが一番ピッタリ来ると思った。


 下町のレストランで、馬鹿でかいステーキと、ソフトクラブ・シェルをつまみに、ワインを飲んでいたとき、無精ひげの馬場さんが

「この町に来ると、いつ来てもどきどきするんだよね。何か主張しようと頑張ってる連中がウヨウヨいるからね」

「自分が見えてないと、何していいか解からなくなりますね」

すっかり気分がよくなって、気が付くと危険な街の、危険な時間帯まで飲んでいた。


「届く、伝わる」馬場節を心地よく、緊張して聞きながら、

「やはり大人のクリエーターは、いいな」・・・・・・

久しぶりに勉強がたりないと思った午後だった。


2003.05.10

5月10日(土)橘君の誕生日で久しぶりの二日酔い。珍しく後頭部に頭痛を伴って、しかもひどい睡眠不足。ロマネ畑の白ワインにやられた。

 昨晩は「並木倶楽部」に何人の蝶たちが、集まってくれただろうか?パーティの開始は午前0時、ほんの1時間が経過した辺りから僕の記憶がチグハグになってしまった。主人公の橘君は確かそれより前にご機嫌状態で酩酊していた。


 夕方、新橋の酒屋で赤、白合わせて1ダースほどのそこそこ上級のワインを仕込んだ。
「弟のように思っている男が、40歳を迎える・・・・・」などと言い訳にしながら、その頃から何故か二日酔いの予感がしていた。グレ、エム・グランデ、ピロポ、シエール、胡蝶花、ロイヤル・ガーデン、普段行きつけの店から、気の置けない仲間が集まり、カラオケの音に耳が休まる暇がなかった。


 30歳を過ぎたあたりから、数歳ほど年下の男性を見ると、決まって亡くした弟を思い浮かべる。幼少の頃の話なので、さしたる鮮明な記憶さえないのに、彼が生きていたらこれぐらいかなぁ、こんな感じかなぁ・・・などと想像してしまう。この世に生きている弟くらいの年頃の男性を見ると、いつもこの幻想にとりつかれるのだ。橘君はたくさんいる弟の中でも、一番頼りになる弟だ。


 不思議なことに、康任(やすとう)という名前の弟が、寝かされていた病院のベットの横の白い壁を覚えている。おぼろげで、遠い過去の時間の中でほんの一瞬の光景が静止している。季節は、覚えていない。
 小さな木製のベッドで、目を閉じた弟の安らかな顔が妙にピンク色で、その白い壁には何故かその頃人気のあった「七色仮面」の漫画の悪戯書きがしてあった。病魔と闘う、彼へのプレゼントに、絵の下手な兄が、両親の目を盗んで鉛筆で小さく書いたものだ。
「康任ちゃんは、遠くの国に行ったのよ。」母の話があまりにも普通で、自然に聞こえたので、僕はなおさら彼と二度と会えないことを悟った。


 久しぶりに池田知之さんと、レイクウッド・ゴルフ・倶楽部でお目にかかった。初夏の陽射しが強く、汗がだらだら流れたにもかかわらず、18ホール、プレイした後も昨夜のアルコールが出きらなかった。大きく笑うと真っ白な歯が印象的な池田さんは、20年来変わっていなかった。僕にとって、太陽のような人がいるとしたら彼そのものだ。


2003.05.03

5月3日(土)雲の上から1通の招待状が届いた。送り主は、茅ヶ崎海岸に住む作家の開高 健先生であった。(写真参照)

 茅ヶ崎まで電車で1時間。青く澄み切った空の真下の海岸の近くに、開高 健先生の自宅はあった。久しぶりにお目にかかるので、少々どきどきしながら、門に続く階段を登った。奥様との連名という先生らしくない不似合いな表札(先生はたった一人が似合う)を確認すると玄関の扉をたたいた。


 父の影響で開高作品に初めて触れたのは中学生の頃だった。「裸の王様」「流亡記」から「青い月曜日」と無我夢中でどんどん読み漁った。河出書房の作品集をあっという間に読破した。読んでいるうちに、同じような文章が書きたくなった。いわゆる物真似(コピー)のつもりで、日記の文章を先生の語句を拾いながら書いてみたが、当時の僕の能力では当たり前のように限界があった。頭の中に入っている本の量が圧倒的に足りなかった。


 大学に入ってからは、まともに先生が僕の生活に影響を与え始めた。19歳のときにヨーロッパに渡ったのも、「ベトナム不慮記」に影響され、平平凡々でのんのんとした現実の生活に嫌気が差したからだ。本田勝一氏の「何でも見てやろう」を読んでローマ行きの片道切符を購入した。


 旅行の予定を延長し、スェーデンのストックホルムに辿り着き、ヌード写真の掲載された新聞紙に包まれたフィッシュ・アンド・チップスをかじった時、僕はまだ20歳だった。


 ネクサスの藤井社長と蔭山さん(没)とヘミングウェーの特番(TV朝日ヒューマン・スペシァル)を制作した。僕にとっては、この文豪ですら、開高先生のコピーに思えた。


 書斎が覗ける庭先で、まだ先生のお尻の温もりの残る椅子と、タバコの煙が悠々と浮遊する机で一服していると、

「そろそろいいやろう」と誰かになだめられたような気がした。

まだ、午後2時すぎなのに・・・・・・・・。

記念館の奥にある杉と松林の向こうで、タータンチェックの先生が、俯きながら消えていった。