DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2006.06.24

第29号「インプラントの勇気」

 長年煩ってきた右の奥歯の虫歯が、長年変わらないゴルフの強振のせいで下顎から解脱、孤立し一人歩きを始め、今にもまとめて唇から零れ落ちそうになってきたので、一念発起、インプラントの手術を受けることにした。

 友人の飯塚歯科医曰く、「手術は、ほんの3時間で寝ている間に終わります。」との励ましに、ついに決行の日が来た。この写真の後に、衛生管理のための白衣を着せられ、髪の毛にも無数の雑菌がいるということで、白い帽子を被せられ、さらに麻酔医と、執刀医、看護婦さん計3名が加わった辺りから、僕の記憶は薄れていった。
歯茎にメスを入れる感触、顎骨の軋む音、インプラントを3本打ち込む鈍い機械音、予想していた恐怖を覚えるような瞬間すら記憶にない。今の麻酔って凄いなぁ!

 小学生のころ、歯医者の待合室でキーンという歯を削る機械音を聞いて、逃げ出した辺りから、歯医者どころかすべての医療に対する恐怖のトラウマに怯えていた。
 
 治療に携わってくれた医師団のほうが、この臆病者の患者より勇気が必要なほど複雑なオペだったらしい・・・・・




2006.06.23

第28号「筆の達人・辻さんが、蕎麦の巨匠になった」

 人間は、落ち着くところに落ち着いてこそ幸福なのであろう。
ビジネスで言えば適材適所、好きな仕事をすることが一番能力を発揮し、成長しやすいし、男と女の関係で言えば、よく似た性格の二人(カップル)の方がつまらないストレスや行き違いもなくて気楽である。
極端な話、この気ままな漂流記の文章ですら、書く万年筆を選ぶよりはペン先を選んだほうが、すらすら程よい文章が書ける。
やはり、自分の才能を発見できた人生は、何より幸せなのだ。

 リクルート時代にお世話になった辻さんが芝公園で蕎麦屋を開店したと聞いて、やはりそうか、と思った。当時文書課にいた辻さんは、その卓越した筆使いはもちろんのこと、小さな接待の招待状から新社屋の落成記念パーティの案内文まで、上品でそつのない、気配りの文章をすらすらの場で書ける才人であった。無論、定型物などは朝飯前である。

 「偶然お蕎麦屋さんの教室に顔を出したんですよ。それでね、蕎麦作りが結構楽しくて性に合ったものだから、本格的に長野に修業に行きましてね。2から3年修行しましてね・・・・・」
 
 筆とそば粉は一見全く異なった無縁のようなものにも思える。が・・・・・和紙を横目で眺めながら、墨汁に気を入れ、文字や文章のイメージを創り上げる作業と、そば粉を練りながらうまい蕎麦を練り上げる作業は共に、念を入れる集中力が一番必要であるようにも思う。




2006.06.14

第27号「亀田弁当の試食会」

 弁当の発売まで残り後20日。
最後の試食会は亀田史郎代表(亀田3兄弟お父さん)と興毅くんにパッケージデザインのチェック、食材のチェック、味のチェック、色味のチェックをしてもらうことになり、世界戦直前の合宿中の伊豆下田のある海岸を訪れた。
三兄弟は父親の史郎さんが独自に作った、砂浜や、海辺を利用したトレーニングメニューを、黙々とこなしていた。

 この日の関東地方を異常なほどの暑気が覆い、灼熱の浜辺はとっくに40度に達していた。

 「おいしそうなお弁当が並んでいますね。この納豆そばは、ほんまに体にいいんですよ。」
まだ背中に砂のついた興毅くんはそう言いながら、机に並べられた10数品目の試食メニューを少しずつ口に運んでいる。

 一方で次男坊の大毅君や、三男の和毅君も参加して和気あいあいの亀田家の晩餐会になった。

 ボクサーは、3つの敵と戦っている。一つは、対戦相手との殴り合い、二つ目は生活の中で自ら持つ欲求をどうセーブするかの自己管理、3つ目はまさに減量との戦いでもある食欲との戦い。

 試食会の弁当を、さわやかに、元気にパクつく姿をみて、普通の父親ならばただそれを満足げに眺めるので済むのだろうが、この父親の鋭利な眼差しは普通の親では滅多見られない“深いやさしさ”に満ちている。

「岸壁から、空に舞う寸前のひな鳥を、親鳥はどんなに嬉しく逞しく、そして悲しく思うのだろう」東




2006.06.08

第26号「富良野の良心、日本の良心!」

 ここ数年、仕事に対する自分の価値観が変わり始めている。これまでは仕事、仕事して、どうしても利益を前提に事を進めていたが、ここ数年は新しい事業や商品の開発していく際に、横から見たり、斜めから見たり、下から見たり、とにかく仕事をする際の意味に対して余裕を持って望みたいと思うようになった。

特に、気持ちのいい仲間と喧々諤々やりながら、創りあげる過程が楽しい。
それでも、短期間に人を強引に集めなければならないような大仕掛けで荒っぽい仕事を頼まれると、変化しつつある最近の仕事の価値観と実際の発生する煩雑な実務との間に折り合いがつかなくなって、ふと、東京を離れる。

今年に入ってからの行き先は、北海道が多い。

 倉本聰先生が東京を後にして、ちょうど20年が経とうとしている。今回は富良野塾開塾20周年と言う事で「地球、光りなさい!」というロングラン公演を観劇してきた。

その頃の富良野は「北の国から」も始まっていなかったし、多分札幌から汽車で3時間という交通の便の悪さもあって、今ほど観光客も集まっていなかったのであろう。北の原生林に覆われた盆地を日本でも有数の文化スポットに成長させたのは、倉本先生ならではの、コンテンツメーカーの上品で知的な最終形であろう。

 雨の匂いが夜に染み出したニングルテラスという森の中で、手作りのチーズケーキと特製“焼きミルク“を飲みながら窓の向こうに並んでいるログハウスの店舗を眺めている。

手作りの彫刻品や記念写真の店が並び、その軒先には巨大な蛍の光のように電球がぶら下がる。人工的だが幻想的な森の祭りに右脳だけが酸化していく様だ。

  戦後60年たって、私たち日本人は自然に対する無関心を装ってきた。
その悲しいまでの結末を一番嘆いているのは倉本先生を代表とする戦前生まれの先輩たちではなかろうか。彼らの時代にはまだまだ子供達が素材として自然の中で呼吸していた。

政治の仕組みや、経済の構造の短絡的な歪みや、都市化と言う名のもとに堕落街やコミュニティを取り返すためには、今後どれほどの富が必要なのであろうか。

「あなたは、文明に麻痺していませんか?車と足はどっちが大事ですか?石油と水はどっちが大事ですか?知識と知恵はどっちが大事ですか?理屈と行動はどっちが大事ですか?批評と創造はどっちが大事ですか?あなたは、感動を忘れていませんか?あなたは、結局なんのかのと言いながら・・・わが世の春を謳歌していませんか?」