DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2003.06.08

6月8日(日)「プライド26」横浜アリーナ、ミルコは硬い! S氏とT氏の招待で、リングサイドに陣取って、格闘技を観戦している(写真参照)。

 普通のスポーツと違って戦いをまじかで楽しんでいると、体中の血管という血管が小刻みに振動し、静脈と動脈が激しく血液を入れ替え、右心房と左心房が休むまもなく活動し、特に選手が入場する瞬間は口の中に入っているハンバーガーを噛むのさえ忘れてしまう。


 古くは自分が演出したボクシングの鬼塚選手の世界戦や、最近では商品を企画化したボブサップ選手などの場合、勝敗はもちろん、試合の内容が選手(コンテンツ)のマーケットに大きく影響を与えるため、この血管の鳴動は逆に冷たく静まり返り、音も聞こえない。


 そんな”凍った商人の眼”で、明日のスポーツ新聞の見出しを気にしながら、控え室と、リングサイドと、スタンド席を行ったりきたりする自分を、何処か寂しく感じるのは、あの少年時代の“震える興奮”を唯一味わえるこの戦いの場ですら、仕事場にしてしまったことで、失ってしまった悲しみでもある。


 僕に格闘技の面白さを教えてくれたのも、やはり父ではなかったろうか?
 もともとどんな男の子(オス)も喧嘩に気を引かれている。戦いの触手は赤子の頃から、いつだって、どこだって、生まれた瞬間から敏感に研ぎ澄まされている。

 どんなオスも雌を奪い合い、食い物を取り合い、寝床を占領しあい、その為に、生きるために肉体と肉体が“生存競争”を演じる、そしてそれが希望という名の“怒りや悲しみ”の感情を伴ってぶつかり合うとき・・・そこに格闘が生まれる。これに経験と其処から生まれるノウハウが加わって「技」になる。


 男は誰でもその人生の中で、この戦うための「技」を意識して習得しなければならない瞬間が訪れる。その一つに愛する人を得た時、守らなければならない人を見つけた時がある。そのとき今までに感じたこともなかった様な、自分とは異なった”別の動物の鼓動”が自らの体内に聞こえる。


 生命力がある限り、僕もこの闘いの本能を持ち続けるであろうし、錆び付いた心の爪をポリッシュ(磨く)し、そのために無理にでも目標という敵を探し、課題という獲物を探し続けるのだろう。


 ミルコ・クロコップは、今年結婚したばかり、”ちょうど巣を造ったばかりの”鷲のように激しく強い。


 男にとって、それも一旦は幸せなことなのだから。