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2003.01.14
1月14日(火)あちこちで在庫切れのモンクレアの白いダウンベストを、BEAMSで発見、大騒ぎで購入、部屋で広げて見たが確かに本物はいい
中に入っている水鳥の良質の羽が、このところ急に冷えこんだ東京の寒気から鉄壁に身を守ってくれるだろう。
本物といえば、この連休を利用して久しぶりに並木通りを歩いてみた。「ブランド・ショップ」が早くも冬物のバーゲンを始めていた。現在のデフレ景気では、商品にいつ見切りをつけるのかが難しい判断であろう。まだ寒さが続きそうだ・・・・・もう少し今の定価でいけるだろう・・・・・などと女々しく迷っていると必ず売れ残る。このような日和見主観的な経営者の店舗営業には、マーケットの動きの素早さが計算されていないばかりでなく、お隣のコンペチターの動向がまったく不在。店頭のポスターの貼り方にもどこか優柔不断な弱気が覗いている。
今のデフレ時代の消費者は、“裏の裏を読んで、買い物をするのを”楽しんでいる。売る側が苦しみながら売価を割り始めた頃に、どこの店が一番弱っているのかをしっかり見極めたうえで、さらに相手のマージンを想定しながら購入する。関西のよう客の様に面と向かって「おじさん、もっとまかるやろ・・・。」
などと健康的に表面からやり取りするのでなく、死を待つ蟻のように静かにウィンドゥの前で値札が赤くなるのを待つのが東京の客なのだ。
銀座通りを4丁目にむかい久しぶりに「天賞堂」に時計を見に行った。この上品で風格に溢れた店は創業123年(1879年)になる。ブレゲ、パティック、ブランパンなどのブランドが並んだショーケースを見ていると、いつになったらこの国の消費者の“外国カブレ”は納まるのだろうと考え込んでしまった。
政府が円安政策を打ち出すことで輸入品が高騰しても“カタカナ生まれ、カタカナ育ちの魅力”は永遠に続くのであろう。この舶来びいきは外国の政治家ファンから、音楽(芸術)、食い物、保険制度、金融システムにまで及んでいる。
「天賞堂」が昨年発表したNEWモデルは複雑な機能といい、精密なフォルムといい、美しいデザインといい、日本人の商品開発力の凄さを感じる。
昼食に鮨を摘まもうと足を築地に向けた。日産本社のショールームに新型のスカイラインとフェアレディZが飾ってある。この商品も戦後の日本人の技術力を結集したようで、誇らしい時代の代表選手だ。しかし・・・・・・そう言えばこの会社の代表もカタカナの外国産であった。
2003.01.01
2003年1月1日(水)いつものように、毎年のことながら“歳の変わり目”の1週間は年末年始のイベントが入り乱れ、東奔西走しているうちに新しい年が明ける。
そして大晦日は眠れない。埼玉アリーナでアントニオ・猪木さんの「猪木ボンバイエ」を最前列で観戦、その後、初詣のラッシュを警戒しながら有楽町まで車を走らせ友人の三瓶氏のプロデュースする「ゴールデン・ライオン」(これは本当に凄い中国サーカスの業師の集まり)のカウントダウン。芝の増上寺で人ごみをチェックし、紅白唄合戦を終えたばかりで、盛岡の安比スキー場でコンサートをお願いしている、さだまさし氏に“よろしく電話”。沖縄のリンケン氏に“どうですか?電話”を入れて・・・・・・・それから名古屋の安藤君に新曲2曲のミックスの状況確認・・・・・・。
気が付いたら冷え冷えの大陸性寒気団があっという間に目の前を雪景色にしていた。数年ぶりにひらひら舞い落ちる初雪が東京の正月を白くすると何か胸騒ぎとともに、この星の異常事態を思わせる。
この時期は昔から苦手で、非常識なことなのだろうが、子供の頃から一度も“新しい年”という実感を持ったことがない。年間のうちで普通の人の気分と一番かけ離れた寂しい1週間になる。
僕にとって“新しい心”“気分一新”を生み出す機会は、門松を飾った元旦の朝よりは、毎朝の散歩で深呼吸をした瞬間に入り込む草のにおいや、サウナで水風呂に浸かってシュワっとくる感覚の奥に生まれる肉体的な刺激を覚える瞬間である。従って、キザな話かもしれないが気分の鮮度からすると「毎日が、お正月」ということになるのだ。
マスコミに勤めていた父の代から東家はこういう祭礼行事にドライであったが(無関心ではないのだが)、そんな僕にも、鹿児島に帰って祖父の家に親族が集まって襟を正して書初めをしたり、池の掃除をしたり、雑煮をつついたり、小学生の頃、お年玉を楽しみにしていた記憶が仄かに残っている。しかしその頃でさえ、(子供心になんで、みんなこんなに“メデタイのかなぁ”と疑問を持ちつつ)親戚の子供たちからも一人置き去りにされてしまうのである。
マスメディアを駆使して、誰かが日本人の精神市場をコントロールし、消費マインドを操るように考えたカレンダーに引きずられ、日本列島が無理やり“お正月ゲーム”をやらされているという欺瞞的な感じすらしてしまう。
こんな“寂しがりやの偏屈なへそ曲がり”にとって、さらに厄介なのは行き付けの店や、茶飲み友達が東京から居なくなってしまうことである。(みんな普通にお正月を過ごしてるんだなぁ)。今年も、銀座組は当然としても、酒飲みの友人までもがスキーや海外旅行に出かけ、しかもスポーツジムは休業、・・・・・新聞も来ない、TV番組は昨年収録した偽造品ということで、疎外された気持ちのままの退屈な年明けになった。
混雑する時間を避けて増上寺に出かけた。今朝の積もらなかった雪に濡れた石段を登り本堂で、手を合わせた。健康のことも、景気のことも、交通安全の事も、すべて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「今年は、みんな君に、まかせたよ」
こんな風に、仏様に祈ってしまった。新年早々、頼まれごとをされた仏様も、さぞ迷惑そうに苦笑をしているだろう。
2002.12.27
12月27日(金)成田空港から帰る途中の高速でホルダーの中の携帯が激しく揺れた。
あれはちょうど昨年の12月の出来事だった。懐かしい声が手の中で聞こえ、僕は久しぶりに君の笑顔を思い出していた。
思えば2002年は“再会の年”であったように思う。
“青春の名古屋”をともに過ごした安藤君から30年ぶりにメールが届いたのは今年の夏だった。センチメンタルの細井君がレコーディングに参加してくれるとは夢にも思わなかった。考えて見れば春先に四谷で藤原和博氏や福西七重さんとお酒を飲んだのも10年振りのことだ。元世界フライ級チャンピオンのチャコフ・ユーリ氏とも数年ぶりに朝食を食べた。
一方で、予想だにしなかった初めての人との出会いや、「こんな仕事もあったのか」というような新しい仕事とも例年以上に遭遇した。きっと世の中が目まぐるしいスピードで変化しているだけではなく、変化の過程で今までの面や点や線、境界線や壁や器が壊れ、あたかも暖流と寒流が一つの海流に混じりながら“新しい大洋に出発するための渦”を創っているのだろう。
今までのノウハウを自己放棄したことで、久し振りに感を使うことが多い一年だった。いつも手探りをしながら、神経質に過ごした日々だった。そのためのストレスでよく遊んだ年でもあった。引越しが多かった子供のころからの性格でもあるが、環境の変わりはじめは“仮説仮定を一つに絞らず”に絶えずいくつかの選択肢を用意する。今年の特徴は仮説仮定すら立てられずに曖昧な予想と明日は役に立たないかもしれない事実を積み重ねて動いてみた。その結果、どれが来てもいいように、スペアーを準備しておいたことで余分な出費もかさんだ一年だった。
2000年という世紀の変わり目がこれといって驚くほどの個人的事象もなく過ぎただけに、“2年遅れのミレニアム”といった歴史的なステップを感じる年だった。ニュースや人の話、町の変化が情報の洪水のように押し寄せた。
ワールドカップという地球レベルの強力なイベントの磁力なのか、戦後50年間続いたわが国の経済構造が根本的に通用しなくなったせいなのか、自分が年齢的な節目を迎えている焦りなのか、それとも単なる“人生のエネルギーの発散の周期”なのか?落ち着かない一年だった。
宵の中でベッドサイドの目覚ましを見るともう6時30分を指している。東京プリンスから、銀座に向かう日比谷通りは赤いテールランプと赤いブレーキランプの喧騒で目が眩みそうだ。(今年一番の渋滞だな)少しいらいらするのでCDのスイッチをONにした。録音中の「記憶」が一番の途中からおおきなボリュームで流れてきた。並木通りの入り口は、もう商売モードに入っている。
孤独が好きな僕と 寂しがりやの君
偶然であったのは 神様のお陰だね
来年は今年以上に神様の力や想い付きに左右される一年になるだろう。しかし神様はすごく身近に、きっと20センチほどのところに居るような気がする。
あまり力まずに自然に時間を創造していこうと思う。
2002.12.16
12月16日(月)新宿御苑近くのレコーディング・スタジオで「質問」の最終録音。「記憶」のメロディーラインの確認作業。センチメンタル・シティ・ロマンスの細井豊氏を招いてピアノ、ハーモニカを重ねている。
細井氏は30年前から僕の脳裏を離れないピアニスト(音楽家)で、その名前の通り「豊か」で柔和な表情がなんともいえない人間味を感じさせてくれる。
彼の指先から繰り広げられる“鍵盤の世界地図”は、ウエスト・コーストから、ミシシッピーあたりまでカバーしたかと思うと、彼の脳裏を走る“五線譜の世界旅行”は中央アフリカのコンゴあたりから、モロッコの裏町まで拡がっていく。
あれは、まだ成人式を迎えていなかった夏の終わりの頃と記憶している。名古屋の勤労会館で安藤君(今回のプロデューサー)と、杉浦君と、当時名の知れた何人かのバンドのリーダーが集まって“たった1日だけのバンド”でライブ・コンサートを行った。僕たちの出番の1つ後ろが、細井氏がピアノを弾いて居たセンチメンタル・シティ・ロマンスというしゃれた名前のロック・グループだった。
演奏を終えた僕の耳を捉えて離さなかったのは、フェンダー社製の“高音のソリッド”な2本のギターのハーモニーと、若かりし細井氏の薄く跳ねるようなリズムのキーボードの音だった。本音を言えば、この30年間、一緒に組んでみたいアーティストの一人であり、またミーハー的に憧れの音楽家でもある。
今、ピアノ専用の録音室の中で、細井君が「記憶」のメロディー・ラインを軽やかに、ムーディに奏でている。僕の作った、あいまいな曲線がどんどん息を吹き返していく。(青春時代から一度も音楽から離れずに、音楽を愛し続けた人の職人芸だ・・・・・・・)。僕は、ほんの数分間目を閉じて、聞き惚れていた。まぶたの裏に、大好きだったセンチメンタル・シティ・ロマンスのステージがくっきりと浮かび上がり、胸の中には1972年の名古屋の風が流れていた。安藤君も、僕の目を見てにっこり肯いた。
街中のあちこちで“赤”がよく目に付く。クリスマスのサンタの帽子と洋服の赤、ポインセチアの赤、ケーキの赤いリボン、冷気でよく澄んだ夜空の飛行機用の安全灯の赤の点滅も無数にある、それに心なしか雑誌の表紙も赤をふんだんに使っている。
クリスマス・イブの夜には、「記憶」、も「質問」もすっかり仕上がっているだろう。二つの新曲は、今始まったばかりの“新しい恋人たち”(質問)と、こよなく人生を愛してきた“なつかしい恋人たち”(記憶)にきっと、気に入ってもらえると思う。
僕は懐かしいピアノの音を聴きながら、打ち寄せては帰す現実離れした“恋の空想”を描き、そして吸ってはいけないタバコの煙を燻らしている。
このアルバムの制作を終える頃に、名古屋に行こうと思う。少年時代に気がつかなかった僕のこころの一部が、残っているに違いない。
細川豊氏(ピアニスト)
細川豊氏と私
2002.12.13
12月13日(金)陽が落ちて夜の冷たい空気が窓の隙間から少しずつ入り込んでいる。ベッドで、今朝の朝刊の“ふたご座流星群”の記事を読んでいるうちにほんの数分うたた寝をしたらしい。
ホテルの部屋の窓から、忙しくパーティに出たり入ったりする黒塗りの車をぼんやり見ている。正面玄関前のロータリーの中心の植え込みが赤と、緑と、黄色の豆電球でちかちか点滅している。東京プリンス恒例のクリスマスの装飾が今年は例年より美しく見える。(きっと去年より大気が澄んでいる)
ナイフできれいに二分の一に割ったような月が貼り絵に置いたレモン色のサラダボールのように浮かんでいる。携帯電話のメールを何度も読み返していたら、体が急に冷えてきた。バス・タブにぬるいお湯を貯めていると、空けていた扉が開いたので振り返ると夕刊が置いてあった。(もう午後6時なんだ。)
午後3時からシー・アンド・エスの橘高会長と会議。そのてきぱきした話し方やいつもながらの笑顔から“シャープな元気”を頂いたせいか、昨夜徹夜したにもかかわらず僕の体がしゃんとしている。「七面草」でスッポンのスープを飲んだ後一軒だけ顔を出そう。そのあともうひと踏ん張りして、残った体力で小金井の公園に流れ星を探しに行こうと思った。
ふたご座の流星群は、オリオンの南東から天中に向かって宵の口からよく見える・・・・・・と携帯サイトに書いてあった。中央高速でほんの30分。さっきまでホテルの窓から見ていた半月は、ハイウェーの両側の街路灯すれすれのところまで低く下りてきている。三多摩エリアのあちこちで流れ星を見るには“絶好の闇”が拡がっているようだ。調布インターをおりて、天文台通りをぬけ、昔よく訪れた「野川公園」の川べりに車を止めた。予想したより闇は深く、はく息がはっきりと白い。川の流れる音も凍ったように聞こえない。用意していた双眼鏡で星空を見上げ、ふたご座に焦点をあわせた・・・・・・。
学生時代この街で過ごした。ちり紙交換をしたり、塾の先生をしたり、無認可の保育園の経営に携わったり、ありとあらゆるアルバイトをした。付き合いで始めた学生運動が中途半端にたち切れ、今振り返ると何故か取りあえずの仕事を探していたような気がする。この街が“僕の故郷”になると当時は考えていたが、とうとう現在まで僕は帰る街を持てないでいる。
毎晩のようにみんなと酒を飲んだ居酒屋は見当たらず、あのころ君とキャッチボールをした空き地は一戸建ての分譲地、住んでいたアパートもモダンなマンションに変わっていた。
東小金井の駅まで車を走らせて見た。昔と同じようにたくさんの学生たちが、週末の駅前通りを賑やかに歩いていた。(中に入って一緒に歩きたいなぁ)
記憶というイメージのなかで、人や街や道や建物は実際のサイズよりどんどん広がって大きくなっていく。
今夜見た小さな流れ星も、いつのまにか時が過ぎると思いのほか明るい色に輝き、僕の記憶の中に留まるのだろう。
2002.12.09
12月9日(月)夜明け前、まだ薄暗い。午前3時すぎから降り出した雪に増上寺の屋根が、袋文字のように輪郭を縁取られている。
低い空から舞い落ちる霙雪(みぞれゆき)で東京タワーの周辺の大気が蜜柑色にハレーションをおこしている。寒いといえば寒いが、僕は半そでのポロシャツを2枚重ねて着ているだけで、むき出しの腕が初雪をじかに感じながら心地が良い。(いつまで、降り続けるのかなぁ?)東京に雪が降ると必ずいつもそう思う。雨が無制限に広大な天空からに落ちてくるのに比べ、何故か雪は一定の限られた量を少しずつ神様が気ままに調整しながら落としているように感じられるのが不思議だ。
こうして朝の散歩をしていると、体全体が皮膚で呼吸している感覚を捉える瞬間がある。その時は決まって、深く息を吐き出し、空を仰ぐことにしている。
芝公園の黄色く枯れた芝生は雪の下にもぐり、足の指先が冷たい。
太陽が宇宙の向こうから、燦燦と無限の光を注いでいるのと比べ、月は限られた灯火のバッテリーをわずかずつ地上に配分している。この月の儚さ(はかなさ)が、人工的な街の明かりと比べるとたまらないロマンでもある。
散歩の途中、水色の朝の雲に浮かんだ行く宛ての無い白い月を見かけることがある。まるで、最後の言葉を捜しているうちに、引くに引けなくなった恋の終りの様に。この月の場合は意地をはってはいるものの、存在感が微かなのだ。
今朝は、太陽も月も雲も風もない。ただ“白い氷”が薄くゆっくりと瞼に落ちては、溶けて行くだけの朝である。
2002.12.04
12月4日(水)青山のレストラン「シェ松尾」に無理をお願いして、閉店時間にもかかわらず、午後の紅茶とケーキをご馳走になっている。
誰もいない応接椅子に腰掛けてぼぉーとタバコを燻らせる。近所のレストランは昼休みのOLが食後のお茶を楽しんでいるのか、まだ混み合っている。
先週、英国製の新車が納車になった。青山通りの紅葉した街路樹の下に車を止めておくと、青いメタリックのボディーに黄色い銀杏の葉が4枚、5枚とあちこちに向きを変えて落葉し、ボンネットに秋のデザインを施してくれる。さらに目を細めて、それを画用紙の大きさに切り取ったイメージで眺めていると幾何学的なアートが、“瞬間的に誕生する”。銀杏の葉っぱがひらりさらりと舞い落ちるたびにそれが未完成の音楽のようでもあり、目的の定まらない人生の面白さの様でもある。役割を終えたはずの落葉は、12月の風を受けて、新鮮なデザイナーに変身した。
「私は、おっちょこちょいだから今までの人生ってミスばっかりしてきたの」何かを話したかったのか突然、女性は話し始めた。
「そんな風に笑いながら「イママデ」という単語を使われると、何か今までの君の過去の人生全体を否定しているようで、寂しくなるよ。」
「だって、最近自分が今持ってる大切なものすら全部要らないって思ったりもするのよ」
「明日とか、将来とか必要以上に考えすぎると、みんなそういう考えが起きるんだよ。現在から先のことは、みんな空想と冒険の世界だからね。ちょっと体の具合が悪かったり、嫌なことがあったりで精神状態が悪かったりするとね、余ほど元気なとき以外は明日以降のことを考えすぎると、不安の雲がだんだん大きく広がって来るもんだよ」
「ゼロからやり直せないかしら」
「もう君は人生って言う山登りを始めちゃってるんだからね。今ある荷物は、全部役に立つ。いざという時にはプラスに働くものだって考えたほうが自然だよ」
「それって、東さんがあんまり苦労してないから言えちゃうのよ。それに自信家って言うのかなぁ・・・・・・・・」
「違うよ。僕の方が、少しは先に山登りを始めたからね。今6合目あたり。まだ君はやっと2合目あたりって気がするよ」
「苦労ってわかんないなぁ。苦労ってなんなの。それ相対的なもの。個人的な絶対的なもの?気の持ち方でなんとかならないの。それとも2合目の私はまだ苦労を知らないのかなぁ」
「気の持ち方で少しは楽になるかもしれないから、取りあえず頂上に向うんだって決めちゃえばいいよ。苦労ってのは後から気が付くことの方が多いよ。“あれは大変だったなぁ”“よく乗り越えられたよね”って自画自賛するようなものだよ。・・・・・きっと。」
「じゃあ、そろそろ山登りの時間だわ、家に帰らなきゃ。またね」
年の暮れになると、いつもこの様に何か雲の上に居るような酸素不足の会話が多くなる。人はこの時期になると山登りをする旅人が自ら辿ってきたルートを確認するように、一度背負った荷物を路傍に降ろして、今年あったことを振り返りたくなるのだろう。
去って行く女性の白いセーターにはらりと銀杏が舞い落ちた。月並みな表現だが青山通り一帯がルノアールの絵のように滲んでいく。その額縁から突然ふわりと君が消えてしまうような気がした。
新車のエンジンの音が、思ったより静かなことに気が騒いだ。
2002.11.28
11月28日(木)「もう少し待てばよかった」と銀座の「平井」で唇を噛んだ。
結論を出してしまった後に、一番大切な話を言われてももう遅い。年の暮れに、誤解が多くなるのは、いつもより判断が早くなるからだろうか。
昨夜は「馬小屋」(恵比寿)で、一杯やっていた。オーナーの中島さんは、その世界では有名なオカマでTVコマーシャルに登場したり、お店の客も今はやりのタレントが顔を出したりと、この業界では人気者だ。
彼らは、われわれ普通の男性?よりデリケートで、特に人間の心の動きには敏感で繊細、時として驚くほど直感がさえる。従って、普通は誤解を招いたり、いいづらかったりする言葉や会話を、瞬間的に相手の気持ちの隙間を抜いてさらりと言ってのける。言われた方も悪い気がするわけもなく、気持ちよく一本とられた感覚で、思わず微笑んでしまう。どこかにオカマであるが故に許されるぎりぎりの限界線を持ちながら、相手を引き込んでいく卓越したテクニックを持っているのだ。まるで、熟練工が、ミクロの穴に水を流し込むように。
「やはり、男は上の口、女は下の口なのよね」
「心も熱く、請求書も厚く・・・がこのお店の主義なの」
「1回試して御覧なさいよ・・・・??・?・?・」
などの名言はメモを取りたくなるほどである。
以前の会社の上司と阿佐ヶ谷の中央線のガード下のスナックに通っていたことがある。この店も料理が美味しく(馬小屋さんも、物凄くいい味付けなのだ)、特に深夜に食べる玉子焼きが秀逸であった。或る夜、彼女(?)のしゃれた話を聞きたくなって1人でその店を訪ねた。6畳ほどの小さな店に、カウンター席が8席。扉を押して入ってみると、客は誰もいない。萩原健一(ショーケン)の「大阪で生まれた女」が小さなボリュームで流れていた。突然、カウンターの向こうで山羊が鳴くような声がしたので驚いてみると、ママが血を吐いていた。赤いTシャツが黒く染まっていた。
「救急車を呼ぼうか、ママ死んじゃうぞ」これくらいしか言葉が見つからなかった。
「御免なさい。こんなとこお見せしちゃって・・・・。恥ずかしいわ」
店を閉めさせて、ママを横に寝かせるとしばらく血の混じった咳をしていたがアルコールの勢いと、吐きつづけた疲れからすやすや寝てしまった。
普段から濃めのアイシャドーが目の周りをパンダのように黒くしていた。
「わたし、お正月が苦手なのよ。両親ももう年だしさぁ。年に一遍のことなのに静岡に帰らなきゃならないの。そこの親族が私をすごく面白がるの。中でも私がすごい可愛がってる甥がさぁぁ、まだ小さいんだけど不思議そうな目で私を見るのよ。それが、少し苦手なの」
「先日は、御免なさい。静岡のこと考えてたら、つい飲みすぎちゃった」
クリスマスが近づいた忘年会の帰りに、ケーキを持ってママの顔を見に行った。あの夜以来酒を断っているらしく、すっきりした顔で、いつもの様にグループ・サウンズを聞いていた。あの日と同じ赤いTシャツを着ていた。よく見ると、黒い文字(ロゴ)で「WE LOVE PEACE」と書いてあった。
彼らほど人間好きは居ないんだ・・・・僕は今でもそう思っている。
2002.11.22
11月22日(金)時間の束縛がかえって集中力を呼び、夕闇がばたばた夜になるのと競争しながら、ホテルの部屋で45分間の間に今夜のプレゼン用の企画書を書いた。
それはDNAに関連したものだ。今、僕は遺伝子に興味を持っている。
地球人口60億の誰もが、まったく同じものを持たない(双子以外は)この“人間の素に”魅せられている。ホームページの性格上、どなたがお読みになるかも判らない、妙に誤解を受けたり、世間を騒がしたりするのも無責任なので、この企画は改めて2003年の4月辺りに、皆さんにも詳細をお知らせしたいと思っている。
一般的に集中力は、限られた時間の中で何かに取り付かれたように発揮されがちのように思われているが、実はそれは間違いだ。或る程度の自由な枠の中で、自らがコントロールして時間や、精神力や、創造性を束ねた方がいいものが生まれる。物理的に余裕がないと、その時は自画自賛して“輝いて見えたものも”あとでゆっくり確認してみるとただ“時間がない割りに、よくやった”という程度の出来栄えの物が殆んどである。
モーツァルトは森の中を散歩しながらたくさんの傑作を書いた。三冠王の落合選手はベンチで打順を待っている間タバコを吸って、投手の投げる球種をイメージしていた、そうそうあのボンズ選手もガムをクチャクチャ噛んでいる。
ものすごくゆとりがある時に、実は全体のイメージが出来上がるのではないか。モーツァルトがピアノの鍵盤の前に座って「さあ、曲でも書こうか・・・・」と思ったときには、すでに曲の全体の構成も、場合によっては細かなフレーズも、実はほぼスコアーが完成していたのではないだろうか。落合選手の場合も一球目のストレートは見逃し、2球目のカーブはわざと空振りし、3球めのカーブを右中間に打ち返す・・・・なんてところまでピッチャーの心理を読んでいたに違いない。
リクルートを退社してから、約2年。ようやく今のフリーのプロデュース業にも馴染んできた。その間、殆んど人のお世話になりっぱなしだった。いつも何かに追われ、いつも何かを探し、いつも誰かに救われ、いつも誰かを探していた。「気楽な人生にみえるよ」と言ってくれる友人もいる。「好き勝手やってるね」という先輩もいる。
仕事は、想像力の結晶である。元にいい商品かどうか、それから市場(お客様)の動きと、お金の流れ、組織のフォーメーション。
もしこの2年が、人生において余裕ある期間の一部だったとしたら来年の仕事は、すでに頭の中で完成していなければならない。
2002.11.15
11月15日(金)午前3時。誰もいない知らない街の外灯の下で車を止めて「クエッション(新曲)」の仮歌を聴いている。
作曲活動はスムーズだが、作詞の方が一行に進まない。詩を書くために頭の中を、やや感傷的、情緒的になるようにコントロールしているせいか理屈では判っているのに、気持ちの整理が付かないことが多い。中途半端な心の状態でいることが今の僕にとっては一番の“安らぎ”なのだ。
誰も来ない見知らぬ町で、こうして音楽を聴いているとふいに川の音が聞きたくなった。川がゆっくりと流れるのを見たくなった。ただ“海に向かう”ということしか、それ以外は何も行き先もわからない、そんな単純な大きなうねりに心を任せたくなった。“自然な心の動きを”感じたくなった。多摩川の土手に着くと、何故か車のトランクから7番アイアンを取り出し、深いラフから向こう岸に向かって球を打った。闇の中で妙な力身が入らなくて、いいショットだった。
アルファ・オメガの社長の佐々木君が早稲田大の卒業論文で「大脳生理学における右脳の活性化」をテーマにした。どうも彼の実証的な話によると小説や詩などの作家は執筆活動に集中できるような頭脳環境を作るのに10日間を要するらしい。日常の雑事から開放され10日。漸く、創造的なやる気と、“空白の中から空想の元素”が生まれるのだろう。しかし今の僕が10日間も、スケジュールをOFFにするのは不可能に近い。そこが職業にしていないものの辛さでもあり、趣味で音楽をしたものの贅沢な僻み(ひがみ)でも或る。
「クエッション」がほぼ完成したので、2曲目の「記憶」の作詞をしている。愛はいつの間にか普遍化し、やがて日常の中で“給料”や、“買い物”、“食事”や、“掃除、洗濯”に姿をかえる。そうなると愛が芽生えた頃の、誰かに対する心の動きを思い出すのは不可能に近い。当時の面影もない相手も、同じ感覚だろう。二人とも姿形を変えている。そんな乾燥した毎日の生活を「これも人生」と諦めるのか、何か物足りずに再び「恋探し」を始めるのかは、人生に対する個人のエネルギーの量に掛っているように思う。
「記憶」という歌は、少年時代・・・・・・“恋を恋したころの心“を探しに出かけるコツを歌にしようと思っている。
川べりの靄の中に止めた車の室内温度が下がってきた。夜明けが少しずつ近づいている。僕の右脳もようやく動き出してきた。作詞のチャンス到来・・・・と思ったが、同時にすごい睡魔にも襲われている。左脳が睡魔と右脳が活性という妙なバランスの中で、高校生の頃のように深夜ラジオのスイッチをONにしてみた。
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