古い10件 | 新しい10件
2003.03.05
3月5日(水)M氏が確定申告の相談にホテルの部屋を訪ねてきた。3日ほど前に、「1年分の伝票を整理したので・・・・・領収書をゴムでとめて・・・・」
と困り果てて電話があった。こうした相談を受けると、得意でもないのに何とかしなければと思ってしまう。僕がFPをお願いしている田中君に作業を依頼してみることにする。10日後に迫っている自分の作業には一切手をつけていないのに。
窓から琉球さくらや、河津さくらが薄くピンクや白い花をつけ始め、増上寺に続くプールサイドのあたりに春の陽だまりがゆらゆらとゆれて、思わず“本気で散歩”に行きたい気分。
冬はどんなに乾燥していても、冬空の寒さから来るイメージからどうしても気分が湿っぽくなるのに比べ、3月があけた頃に登場し、徐々に暖かくなる春の始まりはあらゆる生命の活力が辺りに立ち込めて清清しい。
写真つきの携帯電話に交換して、植え込みのスミレや沈丁花を撮影しては、あちこちにメールを飛ばしている。
小学校からの季節の流れが体に染み付いているせいか、僕は今でも1年の終わりは3月31日だと思っている。会社の決算期や、プロ野球の開幕、など4月1日から新しい暦を始めるところも多いが、・・・・・・目を閉じるとソメイヨシノの桜並木の下をピカピカの学生服に、まだ形のなじんでいない硬くて大きなランドセルを背負った自分の姿が浮かんでしまう。
「桜って、女性の性格に例えたら最悪ですね」
「一人で盛り上がって、しかも誰よりも派手で目立ちたがり屋。たくさんの男たちの目を釘づけにした挙句、みんなが大騒ぎし始めたとたん、今度は勝手に去っていく」
「私は、梅のような奥ゆかしい女性の方が上品で素敵だと思うの」
「誰にも言わないでひっそりと咲いて、よく見ると一つ一つが可憐で責任感にあふれてる」
確かにその通りなのだが、残念ながら最近のこの国の女性は、「さくらタイプ」が圧倒的に多いような気がする。表面的な美しさと、セックスまでのスピードばかりを男性が追いかけるからなのだろうか。・・・・とすると「梅タイプ」の男の数もどんどん減少していることになる。
2003.03.03
3月3日(月)藤原和博君と久々にお茶を飲んだ。リクルートに入社してから約30年、何時でも彼は僕の心の何処かに存在してくれている。
ある時にはやさしく励まし、あるときは激しく非難し、早合点の僕の思いを遠まわしに修正し、・・・・・・彼と会えたことが、僕の小さな人生の収穫の一つでもある。(本人がこのHPを読んだら一笑するだろうが)。と言うと何か彼が遠くに行ってしまった様でもあるが、今でも毎朝のように電話で話したり、時にはメールでやり取りをしている。
しかしお互い退職をしてからは、顔を合わせて話をする機会は意外と年1,2回の“祭り”のような行事になってしまっている。昔は会社の近所であっという間のランチをしたり、朝が来るまで銀座の飲み屋で歌い話し合い、コンサートに出かけ、映画を見たりと兄弟のようにたくさんの時間を共有していた。
嘘のような本当の話だが、歴史の変わり目にも必ず藤原君が横にいた。ベルリンの壁が壊れた直後に壁の一片を拾いに出かけた。エジプトのサハラの砂漠で凧と駱駝の交換が可能かどうか物々交換の実験に行ったのも彼からの誘いだった。神戸が地震に見舞われた翌日、僕たちは古着を持って関西新空港から埃のためにまだ薄茶色の空に曇る神戸港に向かう船に乗っていた。ワイン・ブームを生んだボルドーで「世界ワイン博覧会」という万博のような催し物にも藤原君の招待で出かけた。
TBSラジオの番組で僕のことを取り上げてくれるというので、ウキウキした気分で彼を待っていた。いつものように僕たちは軽い冗談を交えながら世間話に花を咲かせた。
ふと、彼の右手を見ると40年前のセイコー・オートマチック(腕時計)をはめていた。(素敵だなぁ、本当のアンティックって)。
大量消費社会の仕組みの中で、個人の才能が埋没していくことを一番嘆き、今ある経済の仕組みや其処から生まれた流行に溺れずに、“個性を復活すること”こそ人生の幸福であり、そのための幾つかの“処世訓”を主張する藤原君の言行一致は、今でも僕にとって鏡になっている。
藤原君を送った帰り道、世田谷区のある裏道で車を止めて深呼吸をしていると、窓の外に僕の好きな沈丁花の匂いがした。春が近づくと、いつもこの香りに引かれる。沈丁花は一見花びらのように見える部分が、たくさんの額が膨らんで開いているのだそうだ。
藤原君の頭脳の構成も、一見主張に思える“感性の額”が集合して同時多発的に開花し、あちこちで美しい香りを発散している。
2003.02.26
2月26日(水)ボブ・サップ(以下ボブ)氏のCM撮影のため、青山のT・キッチンに集合。(写真参照)
主に印刷媒体用の写真を中心にラジオCM用の台詞の収録まで、久々に制作現場を訪れたが、何か普段のストレスを感じない楽しい時間だった。物を作る現場はやはり幾つになっても楽しい。カメラ班との絵コンテの確認から、ボブ氏はもちろんスタッフの昼食のセットまでこまごまとタイムマネジメントしているバンローゼの坂口氏がきびきびと無駄のない進行で全体をコントロ−ルしているせいもあり、僕はゆっくり現場を楽しんだ。
以前リクルートの宣伝部時代にいくつかのTVCFの制作に携わったことがあるが一番の想い出は、「週刊ビーイング」に桑田圭佑氏を起用し、その撮影のために江ノ島を訪れたことである。風の強い砂浜の、岩の上にビーイングの旗を持った(何かの逆境に立ち向かうことを想定して)桑田氏を当時のリクルートの環境にも似せて30秒のフィルムで構成した。このCFは「稲村ジェーン」という桑田氏の監督作品の映画のPR的要素もかねており、桑田氏本人はもちろん、夕べから不眠不休で準備していた浜辺のスタッフは凄い集中力で撮影に専念していた。
2時間ほど経っただろうか、風が強く吹き始め、押し寄せる波が少しずつ激しくなり、さらに悪いことに満ち潮の時間が近づいているのが解かった。シュートできる時間が無くなっていく。夏が訪れる前のまだ温度の低い早春の海に、腰まで浸かった桑田氏の唇がやや紫色に変わり始めた頃、たかがTVCF(コマーシャル)じゃあないかと思っていた僕の考えは、いつしか学生時代にメガフォンを握っていた頃の、映像に対する気まじめで不器用で無邪気なハートを取り戻し、ときめいていた。好きなことをしていると時間を忘れる。
最近、胸が躍る機会が少なくなったような気がする。何が起こるかわからないような事態も少なくなった。ある程度のリスクと小さな成功も計算できる。すべてが決められたとおりに動き、シナリオという波の上をすいすいと無難に進んでいる。
懐かしい記憶の中で、ボォーとしていると「ボブ氏と、写真でも撮ってください」と、再び坂口さんが優しく笑った。
2003.02.21
2月21日(金)夕焼けを見に訪れた多摩川沿いの公園に梅がぼちぼち実を膨らませ、気の早い蕾は赤い花を咲かせ始めている。(写真参照)
昨日の前夜祭から、今夜にかけて誕生日にたくさんのケーキを頂いた。中でも東京プリンスが作ってくれたケーキは驚くほど大きく、ゴージャスで、思わずデジカメに納めてしまった。(写真参照)
僕がずうずうしく「今年のプレゼントは、ラコステのポロシャツにしてください・・・・・サイズはDです」などと、誕生日を聞かれる人みんなに注文を出してしまったので、しばらくゴルフ用のポロシャツは買わなくて済みそうだ。
胡蝶花の女性にはデュポン社のライターやペンを頂いた。これらの高級品は持ち歩くと必ず無くすので、箱に入れて机にしまった。
というわけで、2日間の間にあちこちの飲み屋で「ハッピー・バースデー」の唄を歌ってもらった。そのたびに悪い気はしないのだが、凄く照れくさく、しかし礼儀なので椅子から少しだけ腰を浮かせて頭を下げた。ワインやシャンパンを空けてもらいながら、何処か相変わらずみんなの祝福の輪から遠ざかってしまうもう一人の自分がいた。
昔から、そうだった。初めは円の中心になって、たくさんの人々を集めるのだが、そこで“祭り”が始まり、集団の興奮がピークに達する頃、僕はひとり帰路に着くのだ。・・・・・・・へそ曲がりの美学だなぁ・・・・・
3年連続で橘君にムードメーカーをお願いしたせいか、明るい雰囲気の宴が続いた。彼は、いつも円の中心にいて華やかだ。(いいなぁ・・・・そういう性格)
最近、花の名前を覚えようと古本屋で「花暦」の本を買った。1年365日にはそれぞれに花が宛がわれている。ちなみに2月21日の誕生花は「クロトン」。別名「ヘンヨウボク(変葉木)」とも呼ばれるマレーシア原産の常緑樹。
異国、異文化への憧れが強く、エキゾチックな小物を収集するのが好きな人。と書いてある。(確かに当たってる所も有るかなぁ・・・・・?)
トイレの便器に座りながら、20分も「花暦」をめくっていた。知り合いの誕生日をめくっては、本に書いてある「誕生花」と性格分析を読みながら本人を想像していた。
そう言えば、半世紀前に冬から春に向かって生まれた僕は、夏から秋に向かって咲く花を“人生という花瓶”に飾らなければいけないんだ。やはりその場合の花は「菊」なんだろう。
白い菊の花言葉は、「真実の愛」、赤い菊の花言葉は「私は愛する」、黄色い菊の花言葉は「軽んじられた愛」・・・・・・そう書いてあるのだが、僕は赤い菊のドライフラワーを生けてみよう。
2003.02.18
2月18日(火)東京プリンスの3階にある、「ボン・セジュール」で伊勢海老をつつきながらバルコニーの向こうの東京タワーを眺めている。陽気が上向いてきたせいか、早咲きのスミレが黄色い花をつけ始めている。
どこから来たのかグレーと白の横縞の水鳥がはしゃぎまわって、池の淵にある石膏色の水がめから時折、水飛沫が上がる。昼からワインを飲むなんて何年振りのことだろう。アルバムの写真の打ち合わせをしている内に、ご機嫌になり、ほろ酔い加減だ。
部屋に帰ると、2時間ほど転寝をしてしまった。いつの間にかヒーターの温度を28度に設定してしまったので、目が覚めたらおでこと背中にぐっしょり汗を掻いていた。
窓のカーテンを開けると、振りそうで降らない灰色の空の下に、春を迎えるには中途半端な桜並木が、小さな蕾をつけながら増上寺の西門の方に続いている。もう3週間もすると、この部屋の窓からピンクに染まった桜満開の芝公園を眺めることが出来るだろう。
2003.02.13
2月13日(木)名古屋の御園座で公演中の、左とん平師匠がたった1日の休暇(公演の休日)が取れるという事で、午前6時の新幹線「のぞみ」に飛び乗った。
浜松を過ぎたあたりで、太平洋の向こうから車内に朝陽が差し込み、改めてその日差しの強さに春が近いな・・・・・と深呼吸をした。オレンジ色の燭光が浜名湖や水辺のほとりの町を染めているのを見ながら僕は、再び朝の深い眠りについた。
「クロス・クリーク」というジャック・ニクラウス設計のゴルフ場は、名古屋から豊田市を貫けて50キロの位置にある。とん平師匠の友人の車に同乗、赤字必死のイベント「万国博覧会」の会場や、作りかけの高速道路など相変わらずマイペースの中部経済圏で独自のインフラを生み出す“尾張”の底力を見たような気がした。
山間の中に作られた川と、バンカーのトリッキーなレイアウト、昨夜からの不安といやな予感が的中しひどいスコアーになってしまった。やはり、初めてのコースは余程の自信がない限り上手くいかない。おまけに40センチほどのパットがぜんぜん入らない。初めてのコースはその自然と景観に飲み込まれ、いつの間にか気合と力が入りすぎ、リズムが壊れ、フォームがまったくばらばらになり、集中力が切れ、終いにゲームを諦める。
帰りの新幹線は、ひどく脱力し悲しい夜汽車となった。
気分転換に、銀座の酒場に顔を出した。いつもの店のカウンターの端に腰を下ろした。まださっきの惨めなゴルフが吹っ切れない。なぜ勝負所のパットが何発も連続してカップを舐めたのかなぁ?・・・・・・?
Y氏が嬉しそうに「名古屋の出張どうでした?日帰りって大変でしょう」
「そうだね、新幹線って意外と疲れるんだ」
「お芝居はどうでした?」
「うん・・・・少し考えさせられたよ」
12時過ぎに、N君に迎えに来てもらってジョナサンで打ち合わせ。隣のK嬢も久しぶりに僕の顔を見て、懐かしかったのか山ほどの質問を浴びせながらエビフライを食べている。
何?・・・・エビフライ・・・・・名古屋の名物おかずだ。今日は名古屋で始まり、“尾張”も名古屋だ。
2003.02.07
2月7日(金)昨夜、アルバムジャケットの撮影が中止になったこともあって、夕方からホテルにて、再度次回撮影日の打ち合わせ。
CPUの福田君に久しぶりに仕事をお願いして、アルバムのデザインを楽しみにしていたのだが、僕のスタッフのスケジュールが上手く取れず、ギリギリでキャンセル。深夜AM2時の出来事だった。そもそも多少の時間のずれは忍耐強く我慢すればよかったのだが、このところの、仕事過多もあって、イライラしてしまい、自分の顔がとてもカメラの前で作れる気がしなくなってしまい、突然中止宣言をしてしまった。外の温度は4度、寒い中待っていた連中はがっかりしたろうな・・・・・。
海に近い三角州に流れ込んだ川が黒くゆったり流れている。
天王洲アイルに掛る橋の欄干の両側のイルミネーションが闇に浮かび上がり、冷え込んだ明け方の空気を吸いながら、橋の真ん中を一組の恋人らしき男女がゆっくりと向こう岸からやってくる。
寝静まった明け方の街は、今はやりの高層ビルと倉庫を化粧直ししたようなカフェ・バーがあるせいか、週末の夜は人でごった返す。
しかし今の時間帯は彼ら二人しかまったく存在しないかの様だ。
橋を渡り終えるところで男がタバコに火をつけた。ライターの明かりでサンド・ベージュの厚手のコートの生地がくっきりとした時、さっきまで男の横に寄り添っていた女の姿が不意に消えた。
まるで切り絵を貼りあわせたように、男の肩の向こうで女の全身が重ねった。
きっとずっと以前に、この橋で二人は出逢い、この橋で恋をした。男はこの橋を「記憶」の道を辿るためにやってきた。・・・・・・・・
こんな設定のジャケット写真を想定している。よって、結構神経質なのだ。
アルバムの方は、「疑問」、「記憶」の2曲が完成。「伝説」という3曲目がほぼ収録を終えた。来週から、ジャケットのカバーの進行が始まる。5年ぶりの作品だが、今まで制作した中では、一番感じているものの表現に熱が入っている。
パートナーが、昔からの友人だったのがここに来て、僕の救いになっている
2003.01.31
1月31日(金)PM5時、多摩川のほとりで夕焼けを背景にアルバムの仮撮影。といってもオート・シャッターを駆使して、あらかじめ決めておいた地点に猛スピードで駆け寄り、レンズの中に納まる作業。
授業を終えて川沿いを散歩している中学生に妙な目で見られた。晩御飯の前に犬を散歩しているおばさんも、興味本位で僕を見ている。しかし、本当にきれいな茜色の夕焼けなのだ。上手く自分の姿がシルエットが納まればアルバムのジャケットに使用できるかもしれない。
東名高速のムコウに富士山が見える。港区の自宅から見える富士山よりも大きく見えるのは近くに高いビルが存在しないからだ。(写真参照)
銀座に戻る道が、混んでいる。月末の金曜日。三軒茶屋から六本木を抜けて芝公園まで1時間もかかった。いつも年の始めの1月は、他の月より早く過ぎていく。
そう言えば、今年になって気が付いたことがある。どうやら僕は”福の神”になったようなのだ。がらがらに空いたクラブや、たった一人のカウンター・バー、おまけに行きつけのサウナの中まで、僕が席に座ってものの数分で人が来る。それも団体の客が必ずドヤドヤ入ってくる。偶然と言ってしまえばそれまでなのだが、この非科学的な現象は、今日になっても続いている。
何か“安い磁石”のように、自分が思えてならない。人も物も情報も、おまけにスーツの毛玉までことごとく、どんどんいろんなものが集まってくる。
玉石混交の自分の周辺を見つめる眼を、より磨きなさい・・・・・・そう暗示されているのだろうか?
明日から、2003年2つ目の月が始まる。
2003.01.27
1月27日(月)昼の12時30分。部屋にうなぎが着いた。東京プリンスで始めて「うな重」を注文してみた。ホテル生活はシンプルでとても便利だが、このホテルにないものは歯医者と、サウナとうな重。
この3つさえそろえば完璧だ。先週から雑誌や街角のあちこちで「鰻重」の写真を見る機会が多く。今日の昼飯はどうしても「うな重」にと決めていた。お客様と、少し小骨が感じられる「うな重」を食べながら「記憶」(新曲)について色々な意見を聞いていた。2時間も繰り返して曲を何度も聴いた。ELT(エブリ・リトル・シング)のバラードのアルバムを参考にもう少しサビをいじくってみようと考えた。
午後3時過ぎの新幹線で名古屋に向かった。ここのところ通過することが多かった“青春時代の名古屋”で、停泊して友人と会う・・・・・考えてみれば昨年来から続いている“思い出の確認”が今の僕の生きるエネルギーを支えている。今回は、学生時代に一緒に暮らしていた杉浦 誠氏(当時も今もゴアという愛称で呼ばれてる)や、長屋さん、上手くいけば加藤文敏君とも再会できそうだ。
予約しておいた広小路の「ヒルトン」の24階の広い部屋から久しぶりに名古屋の町並みを見下ろしている。駅の周辺に幾つかの高層ビルがたったものの薄く広く扇状に、のんびりと横たわった街のおおよその空気感は昔とさほど変わらない。若い時代にこの街を卒業して東京に向かったのは、豊かであるがゆえに、未来への集中力が感じられない落ち着いた都市に不安を感じたからだったのか?今、ようやく当時の不安定な心持が分析できるような気がする。
最上階にあるレストランで長屋氏と昔話に花を咲かせている。あれから30年が経過した。灰色に近い白と透明に近い黒のモノトーンだった記憶の曖昧な部分が表情や指先を通して少しづつ色を帯びてくる。こんな経験も初めてだ。
30年前の写真のところどころに色がつき始めた頃、レストランのバンドがビージーズの曲を演奏し始めた。思い出を訪ねる道のりにはいつも必ず音楽が流れている。
夜が更けて安藤君がゴアを引き連れて迎えに来た。山本屋の「味噌煮込みうどん」を3人で食べようと街に出た。東京より冷え込むはずの街は、雨上がりのせいか妙に暖かだった。
今夜、徹夜に近い状態で行うミックス・ダウンで織り上げるのは、「今」の自分を探す自分と、「過去」にすがる自分を認める自分を「記憶」をとおして曲にするという贅沢で楽しい作業になりそうだ。
2003.01.22
1月22日(水)信号待ちをしていたら、突然大きな鈍い音がして一瞬、ほんの7秒ほど我を失った。高速道路の橋桁が倒れてきたか、車の下のマンホールが爆発したか・・・・と思った。
気が付くと、買ったばかりのジャガーの窓やドアーが完全に電動ロックされ、車の中に閉じ込められてしまった。首を軽く回してみる、肩を左右に動かしてみる、恐る恐る足を腿から少しだけ上げてみる。手首をぶらぶらと揺らしてみる。幸いにも何処も現在のところは痛まない。
窓の外に、追突してきた運転手の顔があった。左の窓の向こうから、警察官の心配そうな声が聞こえた。
「大丈夫ですか?体は大丈夫ですか」
(かなり激しい速度で追突されたな・・・・・)初めてそう思った。
道路の中央で車が大破したようなので、とにかく車から脱出しようと思ったが、窓も扉もうんともすんとも動かない。天井を見るとタバコの煙を出そうと思ってわずかに開けていた屋根のサンルーフから朝の冷たい空気が入り込んでいた。仕方なく強引に窓をスライドさせて、芋虫のように身を乗り出し、車体から這い出して脱出。ボンネットをクッションにして道に転がった。
我ながら、随分丈夫に生まれたものだと思った。車の後部(ボンネット部分)は完全に姿かたちを変えていた。天井はプレスされたようにひっしゃがり、尾灯は粉々に砕け散って道の上に散乱していた。それほどの事故なのに、僕は生きている。
「良かったですね。大きな車だったら死んでますよ」
(そう言われても、こちらで追突をしてくる車両を選んでる訳じゃないよ?)
不況の影響で、リストラされまいと不眠不休、徹夜で仕事をする人が増えている。道路の上では居眠り運転の運転手が増えている。気が焦っているのか一時停止をしないばかりか、信号すら気にしない無法者が普段でもやたら目に付く。携帯電話でメールを打ちながら川に落ちた車もいたそうだ。
経済にゆとりがないせいで、社会がギクシャクし、軽はずみな犯罪が急増している。
知識はあるが知恵のない人間が、個人的な要求が受け入れられないからと人を傷つける。取り締まる方も、一番当てになるのは警察犬ぐらいのもので、取るに足らない犯罪は、時間が無駄だとばかりに相手にしない。
しばらくの間、車を運転するのが怖いばかりか、道を歩くのでさえ危険な様な気がする。
古い10件 | 新しい10件