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2003.05.19
5月19日(月)何年ぶりのことだろう“昔の人と再会”シリーズ大物編の一人、馬場まこと氏がホテルを訪ねてくれた。
朝から、何か胸がわくわくしていた。最近右脳を交換しながら話をする機会がめっきり少なくなり、納期だの、予算だの、数字が絡んだ言葉のやり取りばかり日々だ。もともと頭の中に隙間が足りない、キャパの足りないせいもあり、最近“イメージを溜め込む余白”がめっきり少なくなったのを感じている。しかも、厚手の本を読まない怠惰な生活。
「こんな状態できちんとした話が出来るかなぁ?」
馬場さんは以前の会社の宣伝部の時代に、2本のテレビ・コマーシャルをお願いして以来、僕の最も気になる、尊敬している広告クリエイターの一人だ。
「最近胸を打つ広告が、CMがまったくありませんねぇ」
「TVというメディアに期待する気持ちを持たないクリエーターばかりだからね。それに、子供っぽい連中の、稚拙なCMばかり目に付くね」
「子供のクリエイターで広告効果が在るってことは、見る方の感性のレベルも子供っぽくて、質が下がっちゃってるんですかねぇ」
「要は、届いてないんだよね・・・。伝わってないんだ。伝えようとする意欲もないからね」
「ただ目立てばいいってもんじゃないですよね。」
1991年の夏、僕と馬場さんはニューヨークのフィルム・スタジオで1枚の写真を探していた。たった1つのシーンを探しに1週間ほど滞在した。それは、アメリカ合衆国の若き英雄、故ケネディ大統領が子供を抱き上げる写真だった。
“この人がいると、周りの人が輝く。この人は、磁石なのかもしれない”
この凄いコピーにあう絵は、笑う大統領と、笑う赤ちゃんのコントラストで表現するのが一番ピッタリ来ると思った。
下町のレストランで、馬鹿でかいステーキと、ソフトクラブ・シェルをつまみに、ワインを飲んでいたとき、無精ひげの馬場さんが
「この町に来ると、いつ来てもどきどきするんだよね。何か主張しようと頑張ってる連中がウヨウヨいるからね」
「自分が見えてないと、何していいか解からなくなりますね」
すっかり気分がよくなって、気が付くと危険な街の、危険な時間帯まで飲んでいた。
「届く、伝わる」馬場節を心地よく、緊張して聞きながら、
「やはり大人のクリエーターは、いいな」・・・・・・
久しぶりに勉強がたりないと思った午後だった。
2003.05.10
5月10日(土)橘君の誕生日で久しぶりの二日酔い。珍しく後頭部に頭痛を伴って、しかもひどい睡眠不足。ロマネ畑の白ワインにやられた。
昨晩は「並木倶楽部」に何人の蝶たちが、集まってくれただろうか?パーティの開始は午前0時、ほんの1時間が経過した辺りから僕の記憶がチグハグになってしまった。主人公の橘君は確かそれより前にご機嫌状態で酩酊していた。
夕方、新橋の酒屋で赤、白合わせて1ダースほどのそこそこ上級のワインを仕込んだ。
「弟のように思っている男が、40歳を迎える・・・・・」などと言い訳にしながら、その頃から何故か二日酔いの予感がしていた。グレ、エム・グランデ、ピロポ、シエール、胡蝶花、ロイヤル・ガーデン、普段行きつけの店から、気の置けない仲間が集まり、カラオケの音に耳が休まる暇がなかった。
30歳を過ぎたあたりから、数歳ほど年下の男性を見ると、決まって亡くした弟を思い浮かべる。幼少の頃の話なので、さしたる鮮明な記憶さえないのに、彼が生きていたらこれぐらいかなぁ、こんな感じかなぁ・・・などと想像してしまう。この世に生きている弟くらいの年頃の男性を見ると、いつもこの幻想にとりつかれるのだ。橘君はたくさんいる弟の中でも、一番頼りになる弟だ。
不思議なことに、康任(やすとう)という名前の弟が、寝かされていた病院のベットの横の白い壁を覚えている。おぼろげで、遠い過去の時間の中でほんの一瞬の光景が静止している。季節は、覚えていない。
小さな木製のベッドで、目を閉じた弟の安らかな顔が妙にピンク色で、その白い壁には何故かその頃人気のあった「七色仮面」の漫画の悪戯書きがしてあった。病魔と闘う、彼へのプレゼントに、絵の下手な兄が、両親の目を盗んで鉛筆で小さく書いたものだ。
「康任ちゃんは、遠くの国に行ったのよ。」母の話があまりにも普通で、自然に聞こえたので、僕はなおさら彼と二度と会えないことを悟った。
久しぶりに池田知之さんと、レイクウッド・ゴルフ・倶楽部でお目にかかった。初夏の陽射しが強く、汗がだらだら流れたにもかかわらず、18ホール、プレイした後も昨夜のアルコールが出きらなかった。大きく笑うと真っ白な歯が印象的な池田さんは、20年来変わっていなかった。僕にとって、太陽のような人がいるとしたら彼そのものだ。
2003.05.03
5月3日(土)雲の上から1通の招待状が届いた。送り主は、茅ヶ崎海岸に住む作家の開高 健先生であった。(写真参照)
茅ヶ崎まで電車で1時間。青く澄み切った空の真下の海岸の近くに、開高 健先生の自宅はあった。久しぶりにお目にかかるので、少々どきどきしながら、門に続く階段を登った。奥様との連名という先生らしくない不似合いな表札(先生はたった一人が似合う)を確認すると玄関の扉をたたいた。
父の影響で開高作品に初めて触れたのは中学生の頃だった。「裸の王様」「流亡記」から「青い月曜日」と無我夢中でどんどん読み漁った。河出書房の作品集をあっという間に読破した。読んでいるうちに、同じような文章が書きたくなった。いわゆる物真似(コピー)のつもりで、日記の文章を先生の語句を拾いながら書いてみたが、当時の僕の能力では当たり前のように限界があった。頭の中に入っている本の量が圧倒的に足りなかった。
大学に入ってからは、まともに先生が僕の生活に影響を与え始めた。19歳のときにヨーロッパに渡ったのも、「ベトナム不慮記」に影響され、平平凡々でのんのんとした現実の生活に嫌気が差したからだ。本田勝一氏の「何でも見てやろう」を読んでローマ行きの片道切符を購入した。
旅行の予定を延長し、スェーデンのストックホルムに辿り着き、ヌード写真の掲載された新聞紙に包まれたフィッシュ・アンド・チップスをかじった時、僕はまだ20歳だった。
ネクサスの藤井社長と蔭山さん(没)とヘミングウェーの特番(TV朝日ヒューマン・スペシァル)を制作した。僕にとっては、この文豪ですら、開高先生のコピーに思えた。
書斎が覗ける庭先で、まだ先生のお尻の温もりの残る椅子と、タバコの煙が悠々と浮遊する机で一服していると、
「そろそろいいやろう」と誰かになだめられたような気がした。
まだ、午後2時すぎなのに・・・・・・・・。
記念館の奥にある杉と松林の向こうで、タータンチェックの先生が、俯きながら消えていった。
2003.04.28
4月28日(月)いつの頃からか出会う女性をいくつかのパターンに分けて、“勝手なイメージ”の引き出し”分類している。
もちろん年齢や、国籍や、職業など関係ない。純粋にその女性から受ける印象や感覚的なイメージをインデックスをつけて、書籍やCDのように分類している。
母のような安堵感に包まれる女性、姉のような気丈な人、未熟な妹のように気が気でない存在、幼年時代からの無邪気な遊び友達、気の抜けない男性のようなライバル、そして心が赤く染まりそうなほどのロマンチックな恋人、企業の経理部長のようなそろばん一本の人、交差点ですれ違っただけのただの人・・・・・女性にとっては迷惑なことに違いないが、出会う女性を勝手に自分の中でジャンル分けしているような気がする。
夜毎、飲み屋に出かけ、人よりは多少いい酒を飲んでいると、変わり者で風采の上がらない僕でも年1回くらいは声をかけられないこともないのだが、どうも最近ロマンチックな雰囲気で女性を感じることが少なくなった。
特に最近目立つのが、その人のイメージを感じられない、個性のない女性たちの登場だ。顔のない女性たちは話しているようで、何も話さない。饒舌なのだが意味がない。そう・・・・・大量生産された上に、着色された造花のようだ。
その一つの要因に、話し言葉の退廃がある。すべての会話の語尾があがり、“チョー(超)”オーバーな形容詞を多用し、省略された動詞、略語化された名詞を無関心に使う。日本語の“やさしさ”を忘れたこうした話法にも原因がある。
シナリオもなく、無理して自分を演出するより、黙って微笑んでいてくれた方が、余程神秘的でましなのにと思う昨今である。
2003.04.16
4月16日(水)教室の都合でいつも昼に定例の会議をしているY氏が、わざわざ車を走らせて10時に訪れる。(写真参照)
おそらく昼食を取る時間もないので、芝公園のレンガ通り沿いの旧ダイエー本社のスーパーで、飲み物や、おにぎりやそばを仕込んだ。Y氏とは、かれこれ7,8年の付き合いになるのだが会うたびにいつも新鮮なのは、職業も、年齢も、生き方も、2人の性格もまるで異なるからだ。そのY氏が急に最近、僕の話に耳を合わせてくれ始めた。ひょっとして、無理をしていなければいいが?
窓から身を乗り出して東京湾の方から品川方面に目を流すと、ホテルからプールを抜けて、増上寺に続く道を、ソメイヨシノが低層雲のように覆っている。
つい3,4日前まで台湾桜と河津桜が先頭を争うように、淡い未熟な早咲きの肌色を匂わしていたのだが、あっという間に今は葉桜に変わってしまった。
早朝に寺まで散歩したときには、朝焼けに染まる淡い花びらが頭上を被い、一面ピンク一色、わずかな隙間から見える春の青空が、まるでおどけたときに垣間見せるY氏の、一瞬の寂しさのように僕の気を引いた。
夜に近い夕方、日比谷通りを新橋に向かって散歩していると、時折、石楠花のなんとも甘い香りと、例年のようにツツジの華やかな赤紫が、車の騒音が気になら無いくらいに一斉に開花し始めている。
今晩は、板橋中央病院の中村先生とN氏を交えた夕食会。中村先生は、花にたとえると向日葵のような人だ。穏やかな眼が大きな顔の表情を作り、スローな声に気持ちのゆとりが滲み出ている。派手な黄色ではないが、ストレートに近い濃黄色。決して無理な説得力は試みないが、かといって人に対して消極的ではない。僕の人生の参考書になる人物だ。
御成門の交差点の横にある公園の道は、東京タワーに向かって45度、放射して直線に伸びている。その両側に港区役所が管理する花壇が続いている。ここでも春を代表するわかりやすい花が植えられている。中でも、マーガレットの群生が素晴らしい。量と数を競い合うなら、花びらの色が多様化してしまうスミレより黄色一色のマーガレット集団にかなうパワーの持ち主はいない。まるで、何の衒いも悩みも無いように見えるのだが、それぞれが一つ一つ必死で咲いている。
こんな明るい一心同体の組織があったら強いだろうな。“春の営業集団”としては、最強だ。
2003.04.13
4月13日(日)太平洋倶楽部成田コースの支配人だった古木さんが茨城の阿見ゴルフ倶楽部に移られて、今日は支配人のご招待でお邪魔することにした。
成田空港方面のゴルフ場に1時間車を走らせるのと比べると、普段余り足を向けないせいか常磐道を使う茨城方面は、感覚的にずっと遠く感じる。おまけに、以前帰り道の三郷インターでひどい渋滞にあった経験から、つい苦手意識を持ってしまう。
阿見ゴルフ倶楽部は、桜土浦のインターから30分ほどの平地に造られた箱庭のようなコース。油断するとグリーンの周辺に砂の難しいバンカーが随所に配置され、旗のポジションによってはパットのラインが難解なために3パットのボギーを数える。
朝の1組でスタートし、前半のハーフは3オーバー、後半は雨に降られたため途中で上がった。ロビーで、ミルク紅茶を飲んでいると、半年振りに古木さんがご挨拶に見えた。何処であっても、いつ会っても慶応ボーイを髣髴とさせる紳士。アメリカではあの名門「べブルビーチGC」の支配人をされていた。
初めてお目にかかったときに、
「ゴルフ場の仕事ですけれど、僕はサッカーが好きなんです。最近はマラソンに凝ってるんですよ」
日本のゴルフ場が、バブル以降売上不振にあえいでいる一つの原因に、その所有者偏重の会員制度に振り回された無理なマネジメント 、つまり日本人に似合わないスノブな運営が挙げられる。会員制度とは本来その場所に、実体的に責任を持てる人が運営すべきなのだ。
地域に溶け込んだマネジメント、地域の住人への特定サービス、地場の青少年の育成、そして馴染み易い支配人とスタッフ。
古木さんの手腕で、阿見ゴルフ場の18番ホールに、秋のお米の収穫祭の“祭囃子”が聞こえてもおかしくない日が来るように。
2003.04.03
4月3日(木)青山のF化粧品に通販番組を提案する機会があって午前中から女性の顔や化粧品の事ばかり考えている。(写真参照)
なぜ女性は化粧をするのだろうか?
“いつの時代も女性は綺麗になりたいから”などという行為から生まれる結果を単に受け入れるのでは、市場の分析が必要な僕の仕事には中途半端な結果になりかねないので苦労している。
女性が鏡を前に、化粧をする態勢を作る時、そこには“ある心のパワー”が動き出すのではないだろうか?
それは、男とは無関係な女性独自の社会構成の変化や、変化する時代の背景にある女性の歴史などの、“女性のチカラ”の発露の加減を、それぞれの個人(女性)がどう自分を表現していくのか?どうもここに答えがあるのではなかろうか?
・・・・・・とすれば今の時代の化粧品ほど・・・・元気になりたい女性に
支持される商品。元気になりたい女性を応援するブランドが要求されている時代はかつて無かっただろう。
美しさの根源はいつも「健康な状態」から始まる。
変化のない日常の生活にメリハリを付けるための変身願望や、“勝負の日“彼氏に決心させたいために“渇”を入れる為、などの内面の個に向かっていくものや、例えば何処かの国の女性政治家の下手なスピーチを彩る“赤いルージュ”や社会的ステイタスを意識したPTAのお母さんの“濃くて長い眉”のような外面の集に重点を置いたものであったとしても、其処には“気力”が働いている。
車や衣類、時計、料理などと同様に化粧品も、ご多分に漏れず“金があったら、これがほしい”という希望レベルのマーケット・ニーズは海外産のブランド物が仕切っている。しかし戦後のコスメ市場をリードし、独占してきた資生堂、カネボウ、コーセーなどの大手の実際の業績は、ここのところ新規参入組に押され気味、戦国時代の様相を呈している。
プレゼンを終えて、T社長の横顔を眺めている。われわれのプロジェクトに対して全面的に信頼を置いてくれている。この夏から。僕が応援する新しいF社の商品は、決してこの戦争に負けられない。
それは、生まれてからずっと女性の元気から“運とツキ”をもらってきた僕の人生の恩返しでもある。
2003.03.23
3月23日(日)ニューヨークに行く前の定岡氏(野球解説者)とグリーンで激戦。久能カントリーに桜咲く・・・。(写真参照)
定岡氏と同郷の鹿児島県人の僕は、彼の太陽のようなやさしいデリカシーがとても気に入っている。特に、ゴルフ・プレイ中のマナーは素晴らしい。一緒にコースを回っていても楽しい。いつもパートナーが気持ちよくプレーできるように配慮している。こんなゴルファーが意外と少ないのだ。
186センチと長身で細身に見えるが、後姿、特に御尻の大きさは元巨人のピッチャーだけあって雄牛のようにがっちりしているし、ショットをする前の構え(アドレス)の時の太ももの筋肉は安定感に満ちている。若い頃から、ゴルフをやっていたらきっとプロ(職業)でも食べていけただろう。タイガー・ウッズと同じくらいの体型だし・・・・。
「来週から、ニューヨーク・ヤンキーズの松井君の取材なんですけど、戦争の影響で飛行機は大丈夫でしょうか?テロとかハイジャックとか」
「ヨーロッパ便やアジア方面も危ないけど、何しろアメリカは完全な当事国だからねぇ」
「そうですよねぇ、いやだなぁ・・・仕事請けなきゃ良かったかも」
自分の内面の不安や、心配事を軽く、明るく、さりげなく口にしながら、童顔のなかの大きな瞳をぱちりっと閉じる。彼の人への思慮深い思いやりを感じのは、僕にも南国の血が流れているせいだろうか?
僕はあの埃っぽい暑い夏を思い出していた。
まだ少年の匂いのする定岡氏は鹿児島の誇りであり、県民の希望を担ってたった一人でマウンドで戦っていたように思えた。
故郷は戸籍上存在するものの、心の故郷をいつも求めていた僕にとって彼は“久しぶりに鹿児島を思い出させるヒーロー”であった。
春を感じながらゴルフ場を歩いていると、時として季節の流れがこのまま止まってしまうのではないかという不安に駆られることがある。全てが満たさて身も心も軽い。雲や風の隙間から聞きなれた鳥の声が聞こえ、茎や葉がおだやかに陽を浴びて欠伸をしている。
あたり一面に幸福が漂っているこの春を、割り切って全身で受け止めるのには、まだまだ少しばかり時間がかかりそうだ。
すべてが満足な空間に居ると、何故か照れてしまうのだ。
2003.03.19
3月19日(水)昼食にホテルで天婦羅を食べることになったが、館内のレストランは全て禁煙。個室を予約してゆっくり食べようということになった。(写真参照)
春の始まりは野菜が甘い。涌きたての風呂の湯のように澄んだ油を見ていると唾液が零れる。アスパラ、葱、茄子、などは大根おろしたっぷりの天汁で、伊勢海老や、雲丹、穴子、白魚は衣の先に3グラム程度の塩をつける。帆立には不思議とカレー粉がピッタリ馴染む。
そんな訳でカロリー・オーバーのたっぷりの過食。部屋に戻ってしばらくの間、ズボンのベルトを緩めてぐったりしていた。
窓からまだ冷たさの残る3月の風を入れて、ベッドに横になっていると、睡眠不足のせいかうつらうつらし始めて、気が付くと3時近くになっていた。
そう言えば、17日の昼食も、食べ過ぎた。S社のバイヤーさんのプロモーション会議に4月から売り出す商品のお披露目と商品説明を兼ねてボブ・サップ氏が招聘された。
舞台上で細かな仕掛けがあるために、昼食前に集合。控え室での事前の打ち合わせに用意されたイタリア料理が美味しかった。気が着くと、身長2m、体重170Kのボブ氏より食べてしまった。ボブ氏はきちんと野菜と肉のバランスを考えながら食べている様子だったが、僕はパンにバターをたっぷり塗っただけでは満足できず、ジャムをさらに上塗りし、さらに炭水化物系のパスタまでお変わりしている。
何かの反動かも知れないが、とにかく食欲優先で胃袋を始めとした臓器の健康を考えようという意思がまったく働かない。おまけにボブ氏の為にせっかく室内禁煙にしてあるのに、トイレに続く廊下の裏に灰皿を見つけ、食後のタバコをあっという間に2,3本吸い込んでしまった。
4月が近づいて桜の季節になってから、凄く腹が減る。少年時代のように目につく物、手に届くものは、タバコと食器以外、何でも際限なく口に入れてしまう。特に事務所にしているホテルのレストランでのブッフェ形式の食事を取ると、食後にはゆうに1、5`は増えている。おまけに、1日中何か飲み物を飲んでいるため、あの恐るべき80`のラインにどんどん近づいている。
年頭に今年は72`を目標にしようと思ったのに。最初の仕事が、“フーズ・プロデュース”だから仕方がないよね・・・・・・・?ボブ?
2003.03.10
3月10日(月)東京国際フォーラムで、1960年代のスーパー・スタークリフ・リチャード(以下クリフ)のコンサート観賞。(写真参照)
三瓶氏のお誘いもあって、実はこの興行には僅かばかり「夕焼け創造研究所」からも出資をしている。というのは、クリフには一昔前に縁(思い)があって、リクルートの宣伝部の時代に「週刊B−ING」のラジオCMで彼の「EARLY IN THE MORNING」をBGMに使わせてもらったことがある。
ウォールト・ディズニー氏や、フォード氏の若い日の挑戦的な仕事への姿勢を文章にしたコピーの向こうに、クリフの透明で説得力のある声、ドラマチックな弦とピアノがよく似合って、抜群の効果を発揮していた。このCMを聞いた人はきっと励まされる。そんな風に自画自賛していた作品で、今考えても僕が今まで携わった広告の中で、一番のお気に入りである。
62歳という高齢のせいではないのだが、コンサートは2部制になっていて、後半に入り鳥肌が立つような往年のヒット曲が続き始めた。「YOUNG MAN」を歌い始めた時は驚いた。会場の何処にいらっしゃったのだろうかクリフと同年代のご婦人方がおのおのの手に花束や、プレゼントを持って舞台に殺到したのだ。この光景はジャニーズも真っ青・・・・・・・だろう。だってキム拓が30年後にこれだけのファンを引っ張っていくなんて奇跡に近いだろうから。
最近の広告を見ていて、自分(会社、宣伝部、CFプランナーなど)の言いたい事ばかり、会社や商品の主張ばかりに工夫して、お金をかけているのは解かるのだが、気分の良くなる作品が少ない。もう一度見たくなる様なCFには殆どお目にかかれない。しかも、BGMや、サウンド・ロゴに至っては騒音に近い“音量の競争”だ。
見る側、聞く側の気持ちが不在のままの一方的なクリエイティブが、制作担当者の直情のままに放映されている。
TVのスポットCFなどのその品のなさには、涙か出てくる。心を打たないばかりか、見ていて不愉快なCMは広告効果も少ないし、その企業や商品に嫌悪感さえもたれる。(署名つきCMなんかも、いいんじゃないかなぁ・・・・・?)
クリフの今回のコンサートはカメラも花束も、プレゼントも持ち込み自由。
したがって、東京国際フォーラムの5000人収容の大ホールは、小さな町のライブハウスという感じで、何処となく暖かく、ステージとの精神的距離も意外なほど近かった。
聞き手(お客様)を大切にしたクリフの“大人のサービス”に若い日の思い出にたっぷりと浸った女性もたくさんいらっしゃった。
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