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2003.07.16
7月16日(水)サンマーク出版の青木さんとこの秋発売の書籍の打ち合わせ(写真参照)。
このホーム・ページの「夕焼け小学校校訓」のページをコピーして持ち歩いてくれている方々がそこそこいると言う話に勇気づけられて、それならば、恥ずかしながら思い切って簡単な書籍にしようと思っている。
3年ほど前にも、友人の世話になって父の本をプロデュースした。肝付高夫というペンネームでエッセイをまとめた「それぞれの物差し」というその本は、思いのほかたくさんの読者の方から高い評価を頂いた。
しかし、父の本音はやはり文学作品を出来るだけたくさんの方に読んで頂く事であり、小説家としての社会的評価を期待しているのであろうが。
さて最近の本屋さんの店頭は、人生や恋愛や食事、旅行のノウハウ本のオンパレード、それにタレント本、エッセイとまるで数分で読み飛ばす雑誌の企画ページのような書籍ばかりが目立つ。“活字離れ”の時代と言われはや30年。
この国の人材や文化やモラールの底辺を造ってきた書籍は、今や完全にテレビとゲームという新種の雑草に敗北を喫した。さらに、悪いことにこの強力な映像とアミューズメントの群れは、“インドアー・娯楽”として人間の運動能力を劣化させ、特にそれは無防備で影響を受けやすい子供たちのライフスタイルまで変えてしまった感がある。
・・・・・となると、話は戻るが、やはり救いはノウハウ本と質の高い映像を最後の砦にして、しばし防御を固めるしかないのだろうか?
2003.07.14
7月14日(月)夜の10時過ぎ試合を終えたばかりの本田君から丁寧な電話を頂いた。やはりボクシングは後楽園ホールが一番だ。選手の殺気が見るものさえも打ちのめす(写真参照)。
さっきまでリングで血だらけになった若い挑戦者を、咆えながら、追いながら、打ちのめそうとしていた選手とは、とても思えないクールな声で、
「今日は、本当にみっともない試合をお見せしました。本田です」
「ちょっと手を焼いていたねぇ、1R(ラウンド)の左フックで、相手はかなりよろよろだったけどね。終わってみるとタフないい選手だったよね」
「そうじゃないんです。ああいう選手は、最初はもろくても、ラウンドが過ぎて後半になるとかえって、パンチ慣れしちゃって、だんだん元気になってくるんです。」
「解かってるじゃないか・・・・。やっぱり自分の技術に酔ってるんじゃないの?」
「すみません・・・・・まだまだ課題が多くて・・・・・」
本田君と最初に会ってから、そろそろ2年が過ぎようとしている。大阪に住む山口君から唐突に電話があって、凄い選手がいる・・・世界のベルトは間違いなし。前哨戦を一度試合を見にきてほしい・・・という話なので、急遽僕は大阪体育館にむかった。蒸し暑い夏だった。
グリーン・津田ジムは、あのエディ・タウンゼントという名トレーナーを擁し井岡直樹という軽量級の世界チャンプを育てたことで有名だ。本田君はWBC世界ジュニア・フライ級3位という、実力者にもかかわらず関東ではまだまだ知名度が低い。この業界は、どちらかというとTVのキー局が東京に多いこともあって、東京のジムに通うボクサーの方が日が当たりやすいのが現状だ。
辰吉丈一郎くんも、大阪帝拳ジム(これは、言ってみれば帝拳ジムの大阪支社)だったが、その華やかなスター性もあって最初は日本テレビで名前を売った。
本田君の技術やスピードはまさしく世界のレベルだ。そして頭の良さや、品の善さ、知性もボクサーとは思えないほど・・・・。この選手が、日本のボクシング業界を変える気がしてならない。それなのに、後楽園ホールのポスト(リング・ロープを縛る要の支柱)には、スポンサーの名前すら見当たらない。
僕はこんな隠れた日陰の花が大好きだ。久しぶりにやる気になってプロデュースする逸材を見つけた夜だった。
2003.07.09
7月9日(水)このところ梅雨の影響で、過ごしやすい気温が続いている。5月の下旬からオープンしているホテルのプールも閑散としている(写真参照)。
デパートがこんな時期から、夏物のバーゲンを始めている。気の早い店では早くも秋物のスーツを扱い始めた。(まだ、梅雨も明けていないのに・・・・?)きっと、この秋は大変な不況になる。夏に売れるはずの商品が片っ端から在庫になるだろう。水が売れない。クーラーが売れない。冷蔵庫もだめだろう。きっとサザンもチューブも昨年ほどはヒットしない。おまけに冷夏の煽りを受けて米が取れない。野菜も高騰するだろうし、果物もだめ。せいぜい、計算違いに売り上げるのは、夏風邪にかかった人の咳止めぐらいだろう。
売れない?・・・・というより、ここのところの給料では買えない、というのが消費者の本音だろう。
午前5時半、増上寺の鐘が一日の始まりを教えてくれる。芝公園の辺りから明るくなり始めた東京湾の空に向かって、うろこ雲の流れに合わせるようにゴオォォォンと拡がっていく。このところ、自分の力だけではどうにもならない案件が多い。市場の影響、仲介人の能力、商品のあたりはずれ、広告の説得力、お客様の懐・・・・。1000円売り上げるのに、5年前の10倍の努力が必要だ。
早起きをした朝は、増上寺の正門から本堂に続く階段で、柔軟体操をした後、500円玉をお賽銭箱に入れて“お願い事”をする。お願い事をしながら、1週間の仕事の優先順位を決めながら、スケジュールをイメージし整理する。すると、不思議なことに希望レベルの仕事と、実現可能レベルの仕事が明確になる。カレンダーに色をつけるように無駄な時間と、有効な時間が少しずつ見えてくる。永続的、連続的な仕事、単発的な“その場限りの”仕事、そんなことも判断できる。
決して離してはならない人材や、多分この秋には僕の目の前にはいない人たちのことも・・・・。
今日の午前中には、新しいコンピューターが届く。五感を潰さないようにバランスを失わない様に、この機械にも馴染んでいきたい。
駐車場から、今日始めてのお客様がロビーに向かうのを見ている。おや?やはり秋物のセーターをもう着ている。
2003.06.24
6月24日(火)綾小路きみまろさんのライブは、中高年から老人パワーの爆発だ。場所もピッタリ江東区。僕はただ呆然と未来の自分を想像していた(写真参照)。
綾小路きみまろさん。このアーティストのステージには、今までのどんなライブにも流れていなかった、何処か柔らかいペーソスが滲み出ている。
ツー・ビート時代のビート・たけし氏ほどスピードもないし、あっさりと乾燥してもいない。関西の漫才界のH氏の毒舌ほどねっとりとした湿度が感じられない。攻撃的だが、愛がある。批判的だけど包容力がある。嫌味なのだが、受け入れられる。全体の構成も意外に突発的で、その自然なテンポの話法のせいか時間の過ぎるのも忘れてしまう。
会場は、彼の話術を楽しんでいる。喜んで乗せられている。主張のない若者のロック・コンサートよりずっとハードに、心を打つのだ。観衆自身がつねられ、抓まれ、ひねられているのに、喜んで材料になっている。(こんな芸能タレントさんって、かつてイナカッタ・・・・・?!)ひょっとして、愛する息子に少し強めに肩を揉んでもらっているといった風情なのだ。会場に集まった2000人のお客様は居心地が良くて、ずっと聞き入っていたい風情。
この秋、この鹿児島出身のライブ・アーティストの「飴」と「煎餅」の商品を開発する予定。いい人と回り逢った気がする。
2003.06.11
6月11日(水)透明に近い白い海月(くらげ)がゆっくりと水槽の中を漂っている。S化粧品のテレビ制作の現場は、東名高速の川崎インターからほんの数分の住宅街の中にあった(写真参照)。
朝通の大柴局長と、クライアントの田中代表、永野宣伝担当役員と商品の話や、血液型についての冗談話をしている。
「兎に角A型は慎重で神経質ですから、媒体プランは勿論のこと、テレビCMも絵コンテがかなりきっちりしてないと、気分が悪いのですよね」ヒガシ
「そうそう、一方でO型は聞く耳は持ってるけど、我田引水の人が多いですね。いくつかのパターンでプレゼンしてるけど、実はやりたい企画はしっかり決まってるんですよ。」
「それに較べるとB型のクリエィターはフィーリングでしょう?感覚的な表現や、細かいところに妙なこだわりがあって、頑固だよね。」
「うちの家族は全部ABなんですよ。いつも気持ちが揺れてる。家にいるとA型の僕は気を使うんですよ。」
最近、仕事仲間の血液型が妙に気になる。数年前さだまさしさんと徹夜で血液型の話をしたときも、逢う人逢う人全員に血液型を聞いてみた。
当時は、O型がやけに多くて、そう言えばなんだか“のんびり、ゆっくり”仕事が進んでいた気がする。
このところ、プロジェクトの周辺はB型のパートナーが凄く列を成している。
アルファ・オメガの植村君、JSCの野中君、タレントのN氏、JTBの馬場専務、原田君、福島さん、藤村直美さんのとこの木村さん、元ホット・スパーの佐々木代表、キョウドー東京の牛原君、アウト・プットの松田さん、テレビ朝日の皇さん、それに銀座軍団の志乃さん、さつきさん、由紀子さんと枚挙にいとまがない。それにB型属のAB型を加えるともっと大集団になる。戸張さん(ゴルフ・プロデューサー)、T・アライブの橘君、女優のNさん、これはこれはという感じ。
日本人の血液型のシェアーが4:3:2:1の割合でA、O、B、ABと続くらしいが、僕の仕事の殆どはB型群が牽引している。
スタジオに入ってしばらくすると、“神様のハンドメイド”のような妖艶な美しさを持った涼風さんが、メイクを終えてスタンバイした。彼女の後ろには、濃い紫色の海水をたっぷり入れた3メートルほどの水槽が置いてあり、20匹ほどの海月(くらげ)が浮かんでいる。
照明に明かりをつけると、この世のものとは思えないほどの神秘的は空間が演出され、ADの臺(だい、O型)さんの覗くファインダーの向こうには、肉眼よりさらに幻想的な光景が揺れている。
涼風さんは、いったい何型なんだろう・・・・それが妙に気になっていた。
2003.06.08
6月8日(日)「プライド26」横浜アリーナ、ミルコは硬い! S氏とT氏の招待で、リングサイドに陣取って、格闘技を観戦している(写真参照)。
普通のスポーツと違って戦いをまじかで楽しんでいると、体中の血管という血管が小刻みに振動し、静脈と動脈が激しく血液を入れ替え、右心房と左心房が休むまもなく活動し、特に選手が入場する瞬間は口の中に入っているハンバーガーを噛むのさえ忘れてしまう。
古くは自分が演出したボクシングの鬼塚選手の世界戦や、最近では商品を企画化したボブサップ選手などの場合、勝敗はもちろん、試合の内容が選手(コンテンツ)のマーケットに大きく影響を与えるため、この血管の鳴動は逆に冷たく静まり返り、音も聞こえない。
そんな”凍った商人の眼”で、明日のスポーツ新聞の見出しを気にしながら、控え室と、リングサイドと、スタンド席を行ったりきたりする自分を、何処か寂しく感じるのは、あの少年時代の“震える興奮”を唯一味わえるこの戦いの場ですら、仕事場にしてしまったことで、失ってしまった悲しみでもある。
僕に格闘技の面白さを教えてくれたのも、やはり父ではなかったろうか?
もともとどんな男の子(オス)も喧嘩に気を引かれている。戦いの触手は赤子の頃から、いつだって、どこだって、生まれた瞬間から敏感に研ぎ澄まされている。
どんなオスも雌を奪い合い、食い物を取り合い、寝床を占領しあい、その為に、生きるために肉体と肉体が“生存競争”を演じる、そしてそれが希望という名の“怒りや悲しみ”の感情を伴ってぶつかり合うとき・・・そこに格闘が生まれる。これに経験と其処から生まれるノウハウが加わって「技」になる。
男は誰でもその人生の中で、この戦うための「技」を意識して習得しなければならない瞬間が訪れる。その一つに愛する人を得た時、守らなければならない人を見つけた時がある。そのとき今までに感じたこともなかった様な、自分とは異なった”別の動物の鼓動”が自らの体内に聞こえる。
生命力がある限り、僕もこの闘いの本能を持ち続けるであろうし、錆び付いた心の爪をポリッシュ(磨く)し、そのために無理にでも目標という敵を探し、課題という獲物を探し続けるのだろう。
ミルコ・クロコップは、今年結婚したばかり、”ちょうど巣を造ったばかりの”鷲のように激しく強い。
男にとって、それも一旦は幸せなことなのだから。
2003.06.06
6月6日(金)丁度1年前の、この日を思い出している。僕は、蒸し暑いあの夏の夜を、忘れないだろう(写真参照)。
国中が、サーカーの祭典で沸きかえり、その熱に呼応するように、昨年の夏は記録的に蒸せていた。
今晩も雨で濡れたような月がその淡い光線で、僕を魔法のように“記憶”の森に誘い込んだ。
S氏にロシア戦のチケットを依頼されていた僕は、お客様用にVIP用に用意したわずかなチケットの中から、取って置きの1セットを用意した。
春から続いた饒舌なアナウンサーの解説に飽き飽きしていた僕は、この頃になると毎晩モーツァルトを聴きながら、TV画面の国別の組み合わせ表と星取り予想を分析してベットに着くのが習慣になっていた。
月の海に浮かんだように、レクイエムが静かに部屋に流れている。
「こんなに高価なもの頂いていいのかしら」
「もう二度と見られないんだよ。僕たちが生きてるうちに、日本でワールドカップが開催される確率は、もの凄く低いんだよ」
「弟が、きっと感謝するわ・・・・・こんなもの頂いたこと今まで一度もなかったもの」
家族のことなど、口にしたことのないS氏がふいに弟の話をしたのに、僕は驚いていた。
仕舞い込んだはずの残りのチケットが、その後のトルコ戦の不吉な勝敗を予想するかのように、底の破けた紙袋からはみ出していたのに、気がつかなかった。
スポーツで負け癖が着くと、なかなか自信が持てなくなり、本当は実力があるにもかかわらず、自分のことを過小評価してしまい一層勝てなくなる。
同じように、女性の人生も、あまりに深い傷を負ってしまうと、幸せを感じようとする心が希薄になり、本人の知らないうちに“幸福不感症”になってしまうことがあるようだ。
日本代表は、見事に予選突破したことを単にラッキーと思っていたのではなかろうか?(写真参照)
2003.06.04
6月4日(水)京都の長岡京にある三菱電機の工場にお邪魔した。5万坪という広大な敷地に、大学構内のキャンパスに吹き抜けるような初夏の風が流れ、区画ごとに整頓された建物は、技術者の無駄のない思考を反映するようにシンプルだ(写真参照)。
N氏とS氏の招待でこの研究所を訪れたのは、プリンターの説明を受けるためだった。
ブルーの作業服が、彼らの製品作りに対する真摯なハートを一層浮き彫りにし、営業のご担当の方から、技術開発者までのたくさんの方で商品を案内する・・・・その丁寧さは顧客重視の企業マインドを深く感じさせた。
高校時代の寮のそばにも、この会社と同じグループの工場があった。そこは、背丈より高い2メートルほどもある肉厚のコンクリートに囲まれた馬鹿でかい要塞のような建物で
「ベトナムに送る戦車や、弾薬を作っているんだ。よく血にまみれた装甲車や機関銃が運び込まれてくるらしいぜ。」
とその頃はやりの反戦派の同級生の間で噂になっていた。
16歳の時から父の転勤の関係で名古屋に一人残り、古出来町にある名門高校の寮から夜毎、栄町の公園に出かけ反戦歌を唄っていた。この反戦集会は毎週土曜日の夕方から夜にかけてピークを向かえ、何百人もの仲間が集い、声を張り上げてフォークソングを口ずさんだ。僕は、いつの間にかこの輪の真ん中でギターを抱えるようになった。寂しさを紛らわせるだけの、なんとも言えない中途半端な興奮と、人に見られることでの優越感が刺激となって、定まらない足元の震えを誤魔化していた。
この夏リリースしたCDアルバム「記憶」の安藤君や、細井君などこの頃からの友人だ。
将来がまったく見えない不安と、自分の事がさっぱりわからない不透明さは今日になっても続いている。
その日限りの刺激を追い求め、瞬間瞬間の中にある喜怒哀楽の中にやっとの思いで実在感を感じることで、30年も日々を重ねてしまった。
“青い春”と書いて青春というが、誰かが言うように気の持ちようで人生そのものが、もしも青春だとしたら、僕の人生は“薄い青”の絵の具をたっぷりの水で溶かした容器を、無意識のうちに空中に放り投げたような荒唐無稽の時間の雫でしかない。
京都に来ると、いつも決まってこの時間の流れの速さが、他の都市と異なっている何かを感じる。それはこの町の歴史や、建物や、方言や、人々の振る舞いの中にも存在するが、それよりまして僕自身の体内にある時の過ごし方の反省からくるコンプレックスが端を発した“何か”に違いない。
路地の片隅にひっそりと静まる安定感なのか、この街を定期的に吹く風の重厚な自信なのか?
長岡京の三菱電機をあとに市内に向かうタクシーの窓から、黒く山間に浮かぶ三日月をじっと見ていると、東京と同じ月なのに何故か僕自身が逆に覗かれているようで照れくさい。
知らない町にいると、普段見慣れたものでも、まるで買ったばかりの鏡のように今の自分を鮮明に映し出す道具になることが多い。
その度に何もかも鮮明にしようと試みた若いあの日を懐かしむ。
2003.05.31
5月31日(土)徳田虎雄先生の次男 毅氏の結婚式が盛大に行われた。帝国ホテルは、政界のジュニアーの出陣式さながら大物代議士や徳州会関連の業者、文化人で埋め尽くされていた(写真参照)。
それはまるで父親の息子夫婦の為のお披露目のようで、新郎新婦にはさぞかし迷惑なセレモニーかと思いきや、二人が淡々とその役割をこなしているのに驚かされた。結婚式がどんどん簡素化され、イージーになっていく時代にあって、久しぶりにそれらしい粛々たる儀式の始まり。
そしてさらに僕が驚かされたのは、新郎の父の涙であった。
「皆さん、新郎新婦の入場です」という司会者の言葉とともに新しい夫婦が扉を開けて入ってくる。入り口のすぐそばの新郎側の席は大家族の徳田家のテーブル。そのテーブルの真ん中で、主人公の座をを息子に譲った徳田先生が奥様と並んで座っている。1000人もの招待客に祝福の声をかけられながら、ウエディングソングがゆっくりと流れて、媒酌人の亀井静香先生に導かれて、二人がゆっくりと30メートルも在ろうかと思われるステージの方へ手を組みながら歩いていく。
会場には石原都知事をはじめ、塩川財務大臣、野中先生、氏家代表(日本テレビ)など招待客の顔ぶれは日本のVIPが勢ぞろい。
地鳴りのような拍手の中で僕は、徳田先生と、奥様の姿ばかりをじっと見ていた。
あれは、1996年の夏のことだった。当時まだ体が元気な栗本 慎一郎先生から深夜にもかかわらず突然携帯電話を頂いた。
鹿児島からの電話で、どうも父と天文館あたりのクラブで一杯やっているらしかった。その受話器を突然取り上げたのか、徳田先生だった。
「東君か、そろそろ下らん仕事をやめて、政治をやらんか。政治は楽しいぞ。鹿児島の男だったら少しは国のことを考えんか・・・・????」
この素っ頓狂で、直接的な話し方に僕は好感を覚えた。荒々しい中に何処かやさしさを感じた声だった。
その頃まだ、遠慮深い、繊細で知的な会話に何処か憧れていた僕には、その方言交じりの“あったかなだみ声”が“雲一点ない真っ青な薩摩の青空”のように聞こえた。
その冗談とも思えない依頼を、一応お断りして半年後、僕は徳田先生率いる自由連合の選挙本部で、選対の宣伝広報のいっさいを任され、津波のように押し寄せる候補者の写真の撮影や、PRプラン作りに明け暮れていた。
この数字やデータが欺瞞的にすべてを決定してしまう時代の中で、人材の夢や意欲を最優先して、候補者を選別し、信用していく先生の気持ちが好きだった。
選挙は予想をはるかに超えて大敗した。深夜を回る頃、TVが他党の当選者を次々に発表していくのを事務所の片隅で聞きながら、僕は4週間ぶりに荷物をまとめていた。誰一人、先生の”馬鹿でかい希望”に耳を貸してくれないのか?そんな憤りを覚えていた。
良く人は勝ち組についていけ・・・・・。運は強い人の味方をする・・・・・。
とかいうけれど、必ずしもそうとは限らない。性に合わない仕事や人とはどうしても一緒できない・・・・好きか嫌いかという感情を優先しなければならない瞬間もある。それが思想であり、哲学であり、趣味であり、個性なのだ。
新郎が席に着いた瞬間、会場に南の島のスコールのような大きな拍手が鳴り、その瞬間、大きな白いハンカチーフを背広の内ポケットから取り出し、眼鏡を外した徳田先生がうれし泣きをしていた。なんとも先生らしい豪快な、やさしいうれし泣き、男泣きの涙だった。まいったなぁ・・・・。
素敵な医者、・・・・いや親父だなぁと会場の誰もが思っているに違いない。
2003.05.22
5月22日(木)Y氏と新橋の汽車の前で待ち合わせした。14年ぶりの再会である。
わざわざ待ち合わせにこの場所を選んだのも、東京という街の景色がこのところ思いのほか変化し、電話ですぐに何丁目のどこ其処という約束のスポットがすぐに思い付かなかったからだ。
あの頃は、毎晩のように赤坂の「楽屋」というカラオケ・スナックに立ち寄っていた。いつも、リクルートの仲間を連れて午前様。小さな8畳くらいのスナックに深夜になると顔馴染の客が、ひとりふたりと集まり、歌い慣れた持ち歌を唄い、まるで親戚か同級生のようにお互いの身の上まで分かり合っていた。夜毎深夜だけポカリと浮かんでは、消える“幻の村”、そんな店だった。
深夜の2時を過ぎる頃になると、僕はこうした気の置けない仲間の集団から不意にはずれて、いつもカウンターで肘を折り、虚ろに飲むのが好きだった。意外と醒めた酒を飲むのが好きだったし、ポーズでもあった。同じ顔の仲間と、いつもの変わらない話題、安心できる大きな笑い声、それが居心地の良い夜も在ったが、時にひどい焦りと、自己嫌悪の美味くない酒に変わる時間帯であった。
ある夜、その日の自分の仕事に納得していなかったせいもあって、整理できない頭と気持ちを落ち着かせるために、一人で店を出て、すぐ隣の裏手にある神社の欅の下で月を見ていた。遠くに、一ツ木通りを大声で笑いながら家路に着く友人の笑い声が聞こえていた。
「お兄さん、何を寂しそうに白けてるの?」
振り向くと、満月の明かりが古くなったスポットライトように、Y氏の桔梗のような濃い紫のドレスを映し出していた。
「僕の居る場所がよく判ったね?銀座はもう終わったの?」
「楽屋に行ったら、さっきフラフラッて出てっちゃったよ。東さん裏じゃないか」っていうから・・・・・
まだ二十歳そこそこのホステスがクラブの席に着くのは、当時の僕にとって可能性のある人材が金と男に汚されていくのを放置していくようで、ゆっくりと酒を飲める気がしなかった。Y氏はそんな中でも最も傷つきやすいタイプのホステスに見えた。
少し冷たく感じられる神社の石段に座りながら、僕は眠くなりかけていた。
「北海道に帰るんだろう?水商売は長くやる商売じゃないからね」
「銀座って、やっぱり合わないんだなぁ。ママが気にしてくれればくれるほど怖くなってきたの。」
「残念だなぁ。せっかく店の担当が決まったと思ったのに」・・・・と言いながら僕はやれやれという安堵に似た気分に浸っていた。
あれから10数年がたっただろうか?
立派な主婦(大人の女)になった君と、相変わらず明日が見えない僕が汽車の見える喫茶店で、ミルク・ティーを飲んでいる。
「君の方が、余程僕より大人だったねぇ」
あの夜と同じ不思議な安堵心を、憶えていた。
「まさか、銀座に帰ってくるんじゃないだろうね?」
「どうして?・・・・絶対に帰りませんよ・・・・。あの街は足のない女性と、気の抜けた男性がフワフワ浮いているだけでしょう?」
「まるで風船だよね。“人の欲望と失望が膨らんで、たくさんの風船が飛んでるんだよね。」
「風船ほど、しっかりしてないでしょう。“紐は紐でも、頼りにならないでしょう?」
確かに上手い表現だと苦笑してしまった。
新橋の居酒屋のネオンと提灯が、いっせいに付きだし、しっかりとした足取りでY氏は、家路に向かった。
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