DIARY:夕焼け少年漂流記

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2006.08.19

第34号「マウンドと外野席」

 とんでもないことを思いついたのだが、考えてみれば高校球界を代表する人気のエース、早稲田実業の斉藤君と、我がふるさとの鹿児島工業が準決勝ベスト4で激突するというのも、あるかないかのことでもある。

 午後1時すぎの便で大阪空港へ飛び、すぐさまタクシーに飛び乗って甲子園球場に着いたのは、7回表の鹿児島工業攻撃の場面であった。無料の外野席の1塁側の通路に丁度お尻ひとつ分のスペースを見つけて、熱狂した両チームのリズミカルな応援をどちらともつかず、ただ呆然と眺めていた。

 高校球児を代表する斉藤君にはやがて億単位の札束合戦が繰り広げられ、ベンチで出番を待つピンチヒッターは多分これが最後の試合になる。スタンドで先輩の試合を応援する控えの1年生には、これから2年の間甲子園で戦うチャンスがあり、地元で予選敗に甘んじた球児たちはテレビで観戦しながら進学や就職のことを考えている。

 人生にはいつも見る側と見られる側、演じる側と演じさせられる側、作る人と使う人、握る人と食べる人、突き詰めれば舞台と客席で構成されている。
今野球をみている私が、明日甲子園のマウンドに立つ場面は1000%有り得ないのだが、しかしクライアントの前で、プレゼンという舞台ではデザインやアイデアを発表する。

「見る側と演じる側は、絶えず入れ替わるのも人生」

 突然、我が鹿児島サイドの紫色に染まっていた1塁側の内野スタンドが瞬間悲鳴に変わり、やがて試合の終わりを告げる間延びしたサイレンが鳴った。どうやら鹿児島工業は明日一番のバスで、帰ることになったらしい。




2006.08.08

第33号「虎ノ門の交差点で5分間夕焼けを見ていた」

「今日も、また、夕焼けを見ていた・・・・・・」

 社名にもなっているので当然だが・・・・・こと夕焼けに関しては敏感である。ほとんど毎日のように日没の時間になると西の空を見る。ビルの中にいようが、高速道路で車を運転中であろうが、18番グリーンで1メートルのパーパットを残していようが、とにかく首が自然に西のほうに回り、神経質に夕焼けを探す。

「東さん、何で夕焼け創造研究所って名前なんですか?」と聞かれる。
「別に難しい理由はないんですが、夕焼けを見ていると、いいアイデアが浮かぶんですよ。」いつもこう答えている。

 一日が終わり夜が始まろうとするとき、今日という人生の残り時間もあと僅かとなる。少年時代であれば、母が作ってくれた夕食を食べ、いやいや宿題をこなす、残った僅かな時間に読書する間も無く、もうウトウトと寝る時間がやってくる。

 今日のように無駄な夜が、無かった頃である。

 だから実質的に日没は明日へのカウントダウンであり、1日の残り時間が少なくなった焦りと、“目を閉じるまで”までという納期が迫っている為、程よい集中力で脳の回路が右に右にと回り出す。

夕焼けが空を赤く染めて、やがてたくさんの星が絢爛と輝き始め、薄い満月がゆっくりと光沢を出し始める瞬間に浮かぶアイデアは、大胆で、ちょっと夢見心地で、時には市場のスケールすら感じさせない可能性に満ちたものが多いのである。




2006.08.03

第32号「対談 関口房朗氏と細川佳代子氏」

 仕事先でもある碍SNのプロモーションの一環で、月1回、実績が社会的に評価されている知名度の高いゲストを招いて、座談会を実施している。(この座談会は、週刊ポスト・現代・新潮・文春それぞれ月に1度の割合で、現在も掲載中)

 本日は、ボランティア、チャリティーをテーマに、細川佳代子氏をお招きした。細川佳代子氏は、元総理大臣夫人と言うよりは、昨年長野で開催されて有名になったスペシャル・オリンピックス日本支部の責任者と言ったほうが世界的には知名度が高いだろう。
 一方、関口会長はケア・インターナショナルへ毎年寄付をすることで世界の難民救済をバックアップしている。

 対談内容は、ボランティア精神を持つことで参加している人自身が、大きく成長していくことの素晴らしさ、あるいは人間自らが無意識のうちに持ってしまった既成概念や偏見を取り去ることで自分自身が解放されることの素晴らしさ、など中身の濃いものだった。

 余りある時間と人一倍の健康をいつの間にか普通のように甘受し、昼はゴルフ、そして夜な夜な繁華街に出没しているわが身を思うと・・・・・・少し恥ずかしい気分に・・・・・・・・・




2006.07.29

第31号「桜島への祈り」

 「これは・・・・」と思った新しい事業や商品が、芽を出し始めたときに、私は故郷の桜島の裏側にある垂水のお墓に出向き、先祖の力を借りにお参りに行くことにしている。
笑われるかもしれないが、この習慣はほとんど儀式に近いほど神がかっていて、早朝のフェリーに乗って錦江湾を渡り、日が出る前の桜島の空が紫色になる瞬間に、こうべを垂れるのがプロセスの一つになっている。
 
 この朝は、今年の中でも一番華麗な色彩を演じてくれた。
新しい商品を創るまで、私の我儘やそれから生まれる人間関係の膿や、プロジェクトのメンバー全員が共有している不安や、泥まみれになった売り上げのシミュレーションやらで、グレーのヘドロになったすべての“生まれいずる悩みが、蝋燭の火が一瞬にして掻き消されるように白くなり、やがて希望の紫に変わるのである。”

 今朝は、早すぎて弟の好きだった赤い花が買えないかもしれない、そう思った瞬間、僕の煙草の煙も紫色に変わった。






2006.07.18

第30号「亀田弁当記者会見」

 来週から発売される亀田弁当の記者会見が行われた。今もっともテレビの視聴率を稼ぎ、新聞の部数を大きく揺るがし、殺伐とした親子が多い中で、ホットな親子リレーションの話題を提供する亀田興毅君の弁当は、最低でも100万食は売れる。

 昨年の暮れから温めてきたこの企画は、世界タイトルマッチと合わせて日本全国で発売される予定。
 まだ成人式にも満たない亀田君を、ややマスコミが持ち上げすぎていると懸念もあるが、いずれにしても大阪弁でずばずば本音を語る亀田君は、奥歯に挟まったようなものの言い方しかできないこの国の人たちの中にあって、突出したキャラクターである。

 記者会見の一時間前に、きっちりとしたブレザーで亀田君は会場に現れた。僕よりもたくさんこの弁当企画に関するアイデアを提案し、販売先のローソンを研究し、試食会で食材をチェックし・・・・・・といった彼の仕事に対する姿勢は、ブラウン管から皆さんが感じている大胆な粗暴な若者とは全く逆の、戦略的で繊細な感性の持ち主である。

 これだけ圧倒的なメディアの露出量で実態とは違う亀田像が創りえられているのが、やや心配な気がするのだが・・・・・・。




2006.06.24

第29号「インプラントの勇気」

 長年煩ってきた右の奥歯の虫歯が、長年変わらないゴルフの強振のせいで下顎から解脱、孤立し一人歩きを始め、今にもまとめて唇から零れ落ちそうになってきたので、一念発起、インプラントの手術を受けることにした。

 友人の飯塚歯科医曰く、「手術は、ほんの3時間で寝ている間に終わります。」との励ましに、ついに決行の日が来た。この写真の後に、衛生管理のための白衣を着せられ、髪の毛にも無数の雑菌がいるということで、白い帽子を被せられ、さらに麻酔医と、執刀医、看護婦さん計3名が加わった辺りから、僕の記憶は薄れていった。
歯茎にメスを入れる感触、顎骨の軋む音、インプラントを3本打ち込む鈍い機械音、予想していた恐怖を覚えるような瞬間すら記憶にない。今の麻酔って凄いなぁ!

 小学生のころ、歯医者の待合室でキーンという歯を削る機械音を聞いて、逃げ出した辺りから、歯医者どころかすべての医療に対する恐怖のトラウマに怯えていた。
 
 治療に携わってくれた医師団のほうが、この臆病者の患者より勇気が必要なほど複雑なオペだったらしい・・・・・




2006.06.23

第28号「筆の達人・辻さんが、蕎麦の巨匠になった」

 人間は、落ち着くところに落ち着いてこそ幸福なのであろう。
ビジネスで言えば適材適所、好きな仕事をすることが一番能力を発揮し、成長しやすいし、男と女の関係で言えば、よく似た性格の二人(カップル)の方がつまらないストレスや行き違いもなくて気楽である。
極端な話、この気ままな漂流記の文章ですら、書く万年筆を選ぶよりはペン先を選んだほうが、すらすら程よい文章が書ける。
やはり、自分の才能を発見できた人生は、何より幸せなのだ。

 リクルート時代にお世話になった辻さんが芝公園で蕎麦屋を開店したと聞いて、やはりそうか、と思った。当時文書課にいた辻さんは、その卓越した筆使いはもちろんのこと、小さな接待の招待状から新社屋の落成記念パーティの案内文まで、上品でそつのない、気配りの文章をすらすらの場で書ける才人であった。無論、定型物などは朝飯前である。

 「偶然お蕎麦屋さんの教室に顔を出したんですよ。それでね、蕎麦作りが結構楽しくて性に合ったものだから、本格的に長野に修業に行きましてね。2から3年修行しましてね・・・・・」
 
 筆とそば粉は一見全く異なった無縁のようなものにも思える。が・・・・・和紙を横目で眺めながら、墨汁に気を入れ、文字や文章のイメージを創り上げる作業と、そば粉を練りながらうまい蕎麦を練り上げる作業は共に、念を入れる集中力が一番必要であるようにも思う。




2006.06.14

第27号「亀田弁当の試食会」

 弁当の発売まで残り後20日。
最後の試食会は亀田史郎代表(亀田3兄弟お父さん)と興毅くんにパッケージデザインのチェック、食材のチェック、味のチェック、色味のチェックをしてもらうことになり、世界戦直前の合宿中の伊豆下田のある海岸を訪れた。
三兄弟は父親の史郎さんが独自に作った、砂浜や、海辺を利用したトレーニングメニューを、黙々とこなしていた。

 この日の関東地方を異常なほどの暑気が覆い、灼熱の浜辺はとっくに40度に達していた。

 「おいしそうなお弁当が並んでいますね。この納豆そばは、ほんまに体にいいんですよ。」
まだ背中に砂のついた興毅くんはそう言いながら、机に並べられた10数品目の試食メニューを少しずつ口に運んでいる。

 一方で次男坊の大毅君や、三男の和毅君も参加して和気あいあいの亀田家の晩餐会になった。

 ボクサーは、3つの敵と戦っている。一つは、対戦相手との殴り合い、二つ目は生活の中で自ら持つ欲求をどうセーブするかの自己管理、3つ目はまさに減量との戦いでもある食欲との戦い。

 試食会の弁当を、さわやかに、元気にパクつく姿をみて、普通の父親ならばただそれを満足げに眺めるので済むのだろうが、この父親の鋭利な眼差しは普通の親では滅多見られない“深いやさしさ”に満ちている。

「岸壁から、空に舞う寸前のひな鳥を、親鳥はどんなに嬉しく逞しく、そして悲しく思うのだろう」東




2006.06.08

第26号「富良野の良心、日本の良心!」

 ここ数年、仕事に対する自分の価値観が変わり始めている。これまでは仕事、仕事して、どうしても利益を前提に事を進めていたが、ここ数年は新しい事業や商品の開発していく際に、横から見たり、斜めから見たり、下から見たり、とにかく仕事をする際の意味に対して余裕を持って望みたいと思うようになった。

特に、気持ちのいい仲間と喧々諤々やりながら、創りあげる過程が楽しい。
それでも、短期間に人を強引に集めなければならないような大仕掛けで荒っぽい仕事を頼まれると、変化しつつある最近の仕事の価値観と実際の発生する煩雑な実務との間に折り合いがつかなくなって、ふと、東京を離れる。

今年に入ってからの行き先は、北海道が多い。

 倉本聰先生が東京を後にして、ちょうど20年が経とうとしている。今回は富良野塾開塾20周年と言う事で「地球、光りなさい!」というロングラン公演を観劇してきた。

その頃の富良野は「北の国から」も始まっていなかったし、多分札幌から汽車で3時間という交通の便の悪さもあって、今ほど観光客も集まっていなかったのであろう。北の原生林に覆われた盆地を日本でも有数の文化スポットに成長させたのは、倉本先生ならではの、コンテンツメーカーの上品で知的な最終形であろう。

 雨の匂いが夜に染み出したニングルテラスという森の中で、手作りのチーズケーキと特製“焼きミルク“を飲みながら窓の向こうに並んでいるログハウスの店舗を眺めている。

手作りの彫刻品や記念写真の店が並び、その軒先には巨大な蛍の光のように電球がぶら下がる。人工的だが幻想的な森の祭りに右脳だけが酸化していく様だ。

  戦後60年たって、私たち日本人は自然に対する無関心を装ってきた。
その悲しいまでの結末を一番嘆いているのは倉本先生を代表とする戦前生まれの先輩たちではなかろうか。彼らの時代にはまだまだ子供達が素材として自然の中で呼吸していた。

政治の仕組みや、経済の構造の短絡的な歪みや、都市化と言う名のもとに堕落街やコミュニティを取り返すためには、今後どれほどの富が必要なのであろうか。

「あなたは、文明に麻痺していませんか?車と足はどっちが大事ですか?石油と水はどっちが大事ですか?知識と知恵はどっちが大事ですか?理屈と行動はどっちが大事ですか?批評と創造はどっちが大事ですか?あなたは、感動を忘れていませんか?あなたは、結局なんのかのと言いながら・・・わが世の春を謳歌していませんか?」




2006.05.29

第25号「カツカレーの食べ方」

 明治32年から営々と洋食レストランを続けてきた銀座煉瓦亭に立ち寄った。元巨人軍の名選手千葉さんや、長嶋名誉監督など、この店のカツカレーのファンは歴史的にも数多い。店内は20席あまりの小さな食卓が所狭しと並ばれております。
チェーン店化した大型レストランがその数をほんの数年で100の単位で拡大していく現代にとって、ハンドメイドの凝り性なメニューの数々は美味いのは当然だが、食べるこちらの気持ちも心優しくなるようだ。

 煉瓦亭のカレーはなんと言っても、上にのせたカツの衣の歯触りにある。

 まず最初に、@スプーンを水の入ったコップにつける。次に、Aなるべく中心に近いルーをお匙ですくい、B目を閉じて玉ねぎの炒め具合と、解け具合を感じる。次に、Cご飯をひと匙すくい、ルーの中に混ぜ合わせ、ルーとのコラボレーションを確かめる。この瞬間はルーの温度が決め手となる。次に、D福神漬けやらっきょうやコールスローやなんでもいいが、漬物の類とご飯だけを食べる。いい米を使っているかどうかは、この段階で判明する。一番最後に、E山盛りあるご飯の約3分の2をルーと徹底的に混ぜ合わせる。ここで初めてカレーライスを食べたことになる。

 そう・・・・カツカレーではなく、カレーカツの方が、しっくりくるネーミングですよね・・・・・

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