DIARY:夕焼け少年漂流記

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2006.12.08

第44号「胃の咆哮、入舟町にて」

 行きつけのスポーツ・ジムで、毎日お目にかかる減量のライバル、TMI総合法律事務所の遠山先生との決戦の日まであと2週間をきった。・・・・・・というより、2週間しかないので半分この戦いは双方とも減量の目標値に届かずいたみ分けの様相。元旦に向かってどんどん顔の色を土気色にしながら餓死寸前で減量計に乗ることも無さそうである。

 しかし、最後の望みをつなぎ、実は少しでも睡眠時の無駄な体重増を控えるために晩御飯を6時頃の早い時間に取るか、万が一遅くなったとしたら炭水化物の摂取を控えるようにしている。

 今夜も苦しい。私の人生の大半をかけて肥大化した胃の大きさがわずか一週間や2週間で欲望を抑えられるはずがない。23時を回る頃から、唾液が食道を通って胃液を刺激し始めると、闇の中に光るコンビニエンスのネオンや、閉店間際の居酒屋の提灯や赤い暖簾から漏れる屋台の電球の黄色がより一層その輝きを増し始める。

「人生には限りがある。だから今夜は食べよう。」
と思い、深夜の銀座にハンドルを向けた。メニューに迷いながら、低カロリーを探しながら、そして意思無き自分に怒りながら夜食を求めていると、入船2丁目の信号近くで僕の胃は喜びに震えた。
「凄い数のうどんの見本」
「しかも歴史的に由緒あるうどん屋だ」
素うどん程度ならたいして胃に負担にならないと、木戸を開け、中に入ってメニューを開けた。

「情けない。結局食べたのは、うどんだけではなくすき焼き定食という晩御飯並みの立派なメニューとなってしまった」

 明治屋というこのうどん屋は、減量中の僕にとって不幸中の幸いとも言える。




2006.12.02

第43号「K-1 WORLD GP2006 決勝戦 in 東京ドーム」

 毎年、年の暮れになるとウインター・スポーツでもないのに格闘技がスポーツ・マスコミの主流になる。いつからこんなに格闘技がブームになったのか定かではないが、それは20世紀の後半、1997年辺りからであろう。

 一方、K-1(キックボクシング)やPRIDE(総合格闘技)などいわゆる本格的な格闘技に主役の座を奪われ衰退していったのがプロレスだろう。

 私が小学生のころは力道山率いるプロレスリングが、カラーテレビの普及と共に圧倒的な人気を誇り、やがてそれがアントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんを輩出し、今日の格闘技ブームの礎を作った。
こうした、いわゆるコンテンツが社会に受け入れられる前提になるのがメディアの発達である。エルビス・プレスリーを支えたのはラジオであり、蓄音機であり、普及し始めて間もないテレビである。ビートルズの世界的なヒット曲の向こう側にもLPレコードやステレオと共に、人工衛星による映像配信があった。

 東京ドームのアリーナは、写真撮影禁止というのは名ばかりで、携帯電話のカメラを使ってリングで戦う選手を撮影している若者が多数見られた。ここ数年でパーソナルなメディアとして突然普及した携帯電話やパソコンは、巨大な百科事典として作用し、又、形を変えたコミュニケーションツールとしても定着した。
しかしながらこれらのITメディアが新しいコンテンツを生み出し始める、という気配は今のところない。





2006.11.09

第42号「名古屋の味噌煮込みうどん」

 「小さじに3分の1程、大蒜(ニンニク)を入れて食べると体が温まりますよ」
名古屋駅から乗車したタクシーの運転手が教えてくれた。
この日の東海地方は少々出番の遅れている冬が近づいてくる、という予報にも関わらず、ラコステの半袖のポロシャツでいても汗ばむほどの陽気である。

名古屋へ行くときは、山本屋の味噌煮込みうどんを楽しみにしている。食べ方は、20年前と変わらない。  
まず岡崎屋の赤味噌の匂いを嗅いで・・・茹でないで穴のない鍋蓋で密封し、ごつごつぐつぐつ煮込まれたうどん・・・その上に生卵をかける。なかなか冷めない鍋蓋を茶碗代わりに、白いご飯を少々のせ、そこにスープかけて、うどんを混ぜる。要は“赤みその猫飯うどん”。従ってうどんではなくご飯から食べるのが私の流儀である。

 
名古屋は僕の学生時代の思い出の土地でもある。この平べったい平野を訪れると、いつも決まって奇妙な安心感と、言葉に馴染めないよそ者の焦りと、久々に会う旧友との緊張感に襲われる。

僕の青い時代は“何処か甘ったるい、しかも伸びてしまったうどん“の様でもあるが、それでも過去と言う時間の鍋蓋の下で、煮詰まって、今になってもぐつぐつと沸騰しているのかも知れない。




2006.10.29

第41号「神田古本探し!」

 「神田の古本祭り」は、「青空古本掘り出し市」の総称である。神田の明大通りのある駿河台から神保町をぬけて、専大通りのある神保町3丁目まで、100万冊以上の古本が、年に一回この時期に一斉に開花する。
昨年は藤村操の『煩悶記』が登場して愛読家の話題になった。
 
 この辺りの古本屋エリアは量も質も歴史も、多分店員さんの記憶力も世界一であろうが、神田古書店名簿によると157件の店が営業中であるといわれる。文学、古典、歴史、思想宗教、外国書、社会科学、自然科学、美術版画、趣味芸術からアダルト、などのジャンルに分かれた古書店が、ほとんど工夫もなく、個性もなく、ユニークでもなく、無差別に、ただやたらと、めちゃくちゃな量の本を、床から天井まで、うず高く積んで、並べている。
但し、ご主人に著者と署名を言うだけで、ものの30秒で“探し物”は発見される。

 この祭りの間は、普段閑散としている「さぼうる」、「ミロンガ」、「フォリオ」などの歴史的な喫茶店はもちろん満員。
スタバや、タリーズの前で、買ったばかりの本をひろげる人が、道を塞いでいる。

 大正から第二次世界大戦前にかけてちょっとした中華街だったというだけあって中華も“いい味の店が多い”。当時、中国大陸から多くの留学生が来日しており、そのためか本場顔負けの中華料理が数多く、それぞれが店主の好みで味を作っているため微妙に個性的。

孫文も腹をへらしてウロウロしていたのだろうか?

ラーメン屋に至っては、数えるのが大変で日本有数の激戦区である。

「1円でも余計に本代に当てたいと思う人たちのために、この町のプライドは輝いている」


 さて、私はたくさんのお金は要らない。しかし、音楽を聴くお金と、映画を観るお金と、そして本を買うお金がなくなったとしたら、いつ死んでもいいと思っている。

何年か先に、“表に向きすぎるている感情が、ゆっくりと乾き”落ち着いてきたら、この神田に移り住んでくるのも、いいアイデアかなぁ・・・・




2006.10.14

第40号「笑いを文化にした巨匠」

 「日本はGNPこそ伸びてはいるものの、それに比べて庶民の給料は上がっておりません。皆さん、GNPとは義理と人情とプレゼントではありませんよ。」
 と、こんな感じで速射法のように1時間の講演を終えた木村政雄先生は走り出すように講演会の会場の裏の喫煙コーナーに、辿り着き、おいしそうにタバコを一服吸われた。
VSNの加藤役員(写真中央)はまるで「大学の授業のように為になりました」と、木村先生の2本目のタバコに火をつけた。

関西の、というより日本を代表する“お笑い芸人”の貯水池でもある吉本興業のエンジンでもあった木村先生は、思った通りの知性派の人情家であった。
一見クールで、すべて計算されつくされたような会話を構成する木村先生の頭の細胞の回転数は、おそらく現在活躍しているどのコメディアンよりもスピードに溢れているし、暖かい。こんな人が企業の広報や宣伝を担当したらおそらくその企業の社会的なバリューは、一気に何倍にもなるだろう。人事部長にしたら、顧客の心の機微を捉えるいい営業マンが育成されるだろう。

 今日の日本のコンテンツ業界を動かしているのは、まだまだ業界人の歴史的な利権や人脈のように思える。専門的な業界ゆえ、それらも解らないではないが、木村先生のような市場の求める喜怒哀楽を直感的にトレンドにできるマーケッター(生産者)は、数少ないように思える。コンテンツ商品は、喜怒哀楽の感情的商品である。一般消費財と異なり、そのニーズの住む場所は生活者の心の中にある。従って、お金の動きよりは社会全体の心の動きを敏感に捉える力が何より一番不可欠なのである。

 次に木村先生にお目にかかるときは、一杯酒でも酌み交わしながら人間の心のあり方や、今のマスコミが犯している罪や、今後わが国に必要ないわゆる正統派のコンテンツについての話を是非お聞きしたいと思っている。





2006.10.13

第39号「広島紀行」

 広島空港から瀬戸内海へ向かう中国山脈のど真ん中を通り向ける道は、裏日本と表日本の境界線を辿る道でもある。道の両側はまるで法律で規制されたように熟した柿のような赤銅色の煉瓦の屋根、その端には大なり小なりしゃちほこがどの家にも飾られている。1時間ほど走ると車は呉市の海岸沿いの町に着いた。
 
 谷原先生は、日本各地の遠方に住む患者から贈られたらしいたくさんのお土産の菓子箱を開けながら、「最近の日本人は事実(現象)ばかりを追いかけて、その真実(根本)を見ようという気力が感じられない。日本人ほど真実というものを突き詰める心を持っている民族はいないはずだ。」
とニコヤカに話をしてくれた。

 窓から直角に見下ろす瀬戸内海は濃いクレヨンで書いたようなくっきりとした輪郭の海と小島と妙に人口的な橋が絵葉書のようだ。

 先生の指からメスのような鋭利な電流が流れ、私の内臓が俄かに蓄積された毒素を泌出し始め、その雲泥のような毒素(病原菌の塊)が、窓の向こうのベランダの下の急斜面の坂を瀬戸内海へ向けて滑り出している。幸いにたいした病は患っていないらしいが、谷原先生の指先から放射される熱波は何万ボルトもの光を発し、私の胸と背中は落下する前の無花果のように濃い茶色から黒に変わった。


 新幹線の広島駅で食べた名物のお好み焼きのソースの色もこげ茶色だった。お好み焼きは雑多な料理であるが、私流のかなり難しい食べ方のマニュアルがある。
まずは、@鉄板の上でそのまま食べないこと。
A50〜70度に熱した白色の皿に出来れば直径20センチ以内に焼き上げたお好み焼きを置いて食す。
Bマヨネーズとソースの配合をチェックするために割り箸の先で拾い舐めてみる。
C鰹節と生姜をど真ん中の3センチ四方にのせ、必ず目を閉じて小麦粉を感じる事。
D次に注意深く前歯で蛸を探す。次にキャベツに火が通っているのを確認するようにして同じように前歯で豚肉を探す。
全体的な焼け具合が具の味を引き出すことにもなるので絶対にソースの味に誤魔化されないよう。

 新幹線の広島駅のホームで、突然不意に睡魔に襲われた。谷原先生の治療の程よい効果が出始めたようだ。




2006.10.07

第38号「鹿児島の小金太ラーメンPart2」

 昨年も、当日記で紹介した鹿児島の天文間にあるラーメン小金太を再び訪れた。

今回は写真の餃子をご覧頂きたい。そこに電話番号が書いてあるので、何も言わない、何も書かない。皆さんも是非鹿児島へ足を伸ばしてご賞味頂きたい。




2006.10.01

第37号「東京タワーは、ネオンサインでもある」

 25人に1人の割合で発病する女性の乳がんを再認識してもらい、多忙を理由に健康診断から足が遠のいている東京の女性・・・・?・・・明日の朝にでも乳がん検診をしてもらおうというPRで東京タワーはセクシーなおぼろげな、そして憂鬱な美しいピンクを昭光している。

 東京タワーは、何処からでも見えるシンボリックなメディアとして、そのネオン管の色を変えることで楽しみなメッセージを発信してくれる。皆さんの記憶にも新しいだろうが、2002年のワールドカップの時には、ジャパン代表の色でもある濃い青に空を染めた。

 家路に帰る桜田通りを、一人私は「東京タワー通り」と呼んでいる。札の辻と第一京浜が交差するあたりから赤羽橋までの1キロ5分ほどの道のりに延々姿を見せる東京タワーは、どんなビルよりも一番美しいスタイルで目の前にに迫ってくる。

一方、事務所にしている東京プリンスの裏口から見える東京タワーは突然仁王立ちした巨獣のように、乱暴で傲慢なのだが・・・・。

 今日も一人の小学生が自殺した。友達に遺書を残して首を吊った。あの少年が東京タワーに登って、空や、雲や、小さな都会の町並みを眺めていたら、少しは気も晴れたのでは無かったのだろうか?
「いじめに悩む子供たちを励ますための色は、教育者やその親たちに警戒を促す黄色なのか、それとも今の子供たちの心の虚しさを表す真っ暗なのか・・・・・・。




2006.09.29

第36号「上諏訪と原田泰治美術館」

 さだまさし氏に原田泰治先生を紹介されてから、10年近くなる。子供の頃、小児麻痺で足を患った先生は、車椅子を器用に操りながらホテルニューオータニのバー・ラウンジで談笑していた僕たちのテーブルにご挨拶にいらした。

あの底抜けに明るい先生の美術館を、一度はお邪魔しなくてはと思いつつ、やっとのその機会にめぐり合えた。

今では、なかなかお目にかかれない郷土の景色の原形をテーマに、誰の心にも残照している“古き良き日本の原色”。      
その手法の暖かさはやがて朝日新聞の表紙を飾り、一気にファンを獲得することになる。

 初秋の諏訪湖は、名物のかりんで縁取りされ、湖畔を散歩していると丁度日没を迎えた。中央アルプスの向こうに裏富士さえ見えないものの、連々とした漆黒の山並みが浮かび、湖面が柔らかな赤銅色に染色されていく。海に落ちる夕焼けとは違い、湖の向こうに深く沈む夕焼けは見るものの視野が限られているだけにより一層切なくもなる。
冬が近づいているせいか、春や夏のような旅人の雑多な喧騒や無駄な色彩がなく、それがかえって諏訪湖の静寂を単調で物憂いものにしている。

 上諏訪の標高は、一般的に800メートルと言われている。人間が住まうのにもっとも適当な気圧らしい。

 山脈と湖畔と湖がやがてただの黒に変わった。信州名物のそばでも食べて中央線に飛び乗ろうと思う。




2006.09.22

第35号「ドミニカ共和国の英雄」

 ウェルネット・インターナショナルの平柳氏は、切れ味鋭い企画と明敏な発想でその仕事は多岐にわたっている。  

その中の政府関連の仕事でもあるドミニカ共和国のプロモーションに私もお手伝いをさせて頂く事になった。
先週から幕張メッセで観光博が行われ話題になっているが、今日はドミニカ共和国を代表するメジャーリーガー、ホセ・リホ氏と長嶋一茂氏を招待しお茶をセットすることになった。

 ホセ氏は、当時シンシナティ・レッズの4番打者で1986年のワールドシリーズでは、その圧倒的な長打力でMVPを獲得した英雄である。物腰の柔らかさからも一流の紳士である。

 ドミニカ共和国は、人口830万人の小国、小さな島国である。島全体をじゃがいもの形に準えると、真ん中で国土は2分され、ハイチとその島の領土を半分づつ所有している。名産は葉巻、ビール、それに野球選手である。ご存知サミー・ソーサーやガルベス、現在も西武ライオンズで活躍しているマルチネスなど日本の野球チームに移籍すればすぐさま40本程度のホームランを打つ選手はごろごろいるらしい。いずれも、何年か前の何処かの後進国同様“あるファミリー”がそれらの利益と利権を独占しているらしい。

 195センチ、115キロというホセ氏と握手した瞬間に、まるで厚手のグローブに包み込まれ、握りつぶされたような健康的な圧縮感を覚えた。

「この手で抓まれたバットに当たれば、野球ボールなんて、まるでピンポン玉だろうな・・・・・」

 ホセ氏は2003年に現役を引退されたのだが、今すぐにでも現役復帰してもらい巨人軍あたりのクリーナップを盛り上げてほしい気がした。丈夫そうだし、紳士だし・・・・・

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