DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2012.03.29

第16号 嵐田三郎さんを偲んで

 嵐田三郎さんを偲んで、ニューオータニへ急いだ。会は午後二時に終わるので、ぎりぎり間に合った。大広間には、既に弔問の客は無く、大きな祭壇に嵐田さんの近影が、飾られていた。

 人生は、色々な人との出会いで影響され、ぐるぐる変化し、回転しながら時が過ぎていく。目に見えない変化もあれば、鞭を打たれた馬のように走り出す激しい展開もある。
 
 1993年の暮れに、僕は福岡にいた。福岡ドームの開業まで残り数ヶ月に迫っていたとき、ダイエーの中内会長の命を受けて、リクルートで特殊なプロジェクトを任された。そのうちの一つがドームのキャンペーン(今で言うブランディングかな?)。

 いろいろ、細かな知恵や作戦をスケジュールに置いたが、どうもこの巨大な施設の知名度を瞬間的に上げるのは困難に思えた。そんな時に、行きつけの銀座の飲み屋で、嵐田さんに会った。

 ビールを片手に、煙草をフカシテイタ。静かな品のいい小柄な紳士であった。少なくとも、僕には笑顔を絶やさなかった。ピーナッツを日に焼けた指に転がしながら、また一服。ダンディであった。紺色のスーツに、紺のドットのネクタイを締めていた。色気があったのは、男のスケールから来るものであろう。

 「マイケル、ジャクソンは、来日の予定はありませんか?」
 僕の唐突な質問に、彼はシンガポールでのコンサートを予定しているといった。
 「東京はさておいて、福岡で、歌ってくれませんか?」
 ちょっと、聞いてみますよ。・・・あたかも、隣に住む知人に挨拶をするように、気軽にマイケルに打診をした。

 福岡ドームが開業した年は、現在でも語り草になっているように、続々と大物ミュージシャンが、来日。ホイットニー・ヒューストン、サイモン&ガーファンクル、マイケル・ジャクソン、マドンナ・・・・。

 僕が、今の仕事を適職かもしれないと考えたのは、嵐田さんの影響が大きい。師弟関係に近いキャリアの差を感じながら、彼の隣の席は居心地が良かった。多分、”こんな中年の男”になろうと憧れたからであろう。  

 ご遺族に挨拶をして、帰ろうとした時に、キョードー横浜の藤村会長が
壁の方を指差しをした、
 そこには、イベントのスタッフが首に下げるたくさんのステッカーが掛けられていた、多分1000枚は、超えるであろう、

 僕は、必死で福岡ドームのマイケルジャクソンを探していた。
 それはまるで、見舞いの折鶴が、舞い降りたかのように、美しいオブジェであった。無造作に掛けられているのが、嵐田さんらしかった。

 照れ屋の嵐田さんは、最後は、自らステージに立った。僕は、最前列の観客の一人として、感謝しながら目を閉じている。