DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2002.12.27

12月27日(金)成田空港から帰る途中の高速でホルダーの中の携帯が激しく揺れた。

 あれはちょうど昨年の12月の出来事だった。懐かしい声が手の中で聞こえ、僕は久しぶりに君の笑顔を思い出していた。

思えば2002年は“再会の年”であったように思う。

“青春の名古屋”をともに過ごした安藤君から30年ぶりにメールが届いたのは今年の夏だった。センチメンタルの細井君がレコーディングに参加してくれるとは夢にも思わなかった。考えて見れば春先に四谷で藤原和博氏や福西七重さんとお酒を飲んだのも10年振りのことだ。元世界フライ級チャンピオンのチャコフ・ユーリ氏とも数年ぶりに朝食を食べた。


 一方で、予想だにしなかった初めての人との出会いや、「こんな仕事もあったのか」というような新しい仕事とも例年以上に遭遇した。きっと世の中が目まぐるしいスピードで変化しているだけではなく、変化の過程で今までの面や点や線、境界線や壁や器が壊れ、あたかも暖流と寒流が一つの海流に混じりながら“新しい大洋に出発するための渦”を創っているのだろう。


 今までのノウハウを自己放棄したことで、久し振りに感を使うことが多い一年だった。いつも手探りをしながら、神経質に過ごした日々だった。そのためのストレスでよく遊んだ年でもあった。引越しが多かった子供のころからの性格でもあるが、環境の変わりはじめは“仮説仮定を一つに絞らず”に絶えずいくつかの選択肢を用意する。今年の特徴は仮説仮定すら立てられずに曖昧な予想と明日は役に立たないかもしれない事実を積み重ねて動いてみた。その結果、どれが来てもいいように、スペアーを準備しておいたことで余分な出費もかさんだ一年だった。


 2000年という世紀の変わり目がこれといって驚くほどの個人的事象もなく過ぎただけに、“2年遅れのミレニアム”といった歴史的なステップを感じる年だった。ニュースや人の話、町の変化が情報の洪水のように押し寄せた。

 ワールドカップという地球レベルの強力なイベントの磁力なのか、戦後50年間続いたわが国の経済構造が根本的に通用しなくなったせいなのか、自分が年齢的な節目を迎えている焦りなのか、それとも単なる“人生のエネルギーの発散の周期”なのか?落ち着かない一年だった。


 宵の中でベッドサイドの目覚ましを見るともう6時30分を指している。東京プリンスから、銀座に向かう日比谷通りは赤いテールランプと赤いブレーキランプの喧騒で目が眩みそうだ。(今年一番の渋滞だな)少しいらいらするのでCDのスイッチをONにした。録音中の「記憶」が一番の途中からおおきなボリュームで流れてきた。並木通りの入り口は、もう商売モードに入っている。


孤独が好きな僕と 寂しがりやの君

 偶然であったのは 神様のお陰だね


 来年は今年以上に神様の力や想い付きに左右される一年になるだろう。しかし神様はすごく身近に、きっと20センチほどのところに居るような気がする。


 あまり力まずに自然に時間を創造していこうと思う。