DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2011.04.16

第10号 地震雲!?

地震雲!?3.11以来、空を凝視する事が多くなった。
あの災害は、到底映像や、言葉では表現できるものではないし、またそんな
技量は日本語には無い。

今朝もまた、何処かでわが身に、置き換えられない安心感と”虫のよさ”が
空を眺めさせているのカモシレナイ。

 しかし、薄ら薄ら解かってきたのは、どうやら僕たち人間は、自然を
上手く利用して暮らしていると誤解していたが、それはとても悲しい傲慢
にすぎなかったと言うこと。自然が人間に”生きる許可”を与えていたという事。
 それでも「誤魔化」しの豊かさの中で経済一本を軸に、動いていたこの国の事実は、東京電力のスタッフを見ても、それを批判しているほぼ日本人全体を見ても、今後もとろとろ変わる様子も無い。

 黒い海が静に、そして自然に、人や、建物や、山や、社会に押し迫り、
巨大な胃袋のように、”生命”を放り込む。
 「死」が普通で「生」が、奇跡という現実。我々、人間は死も生も選択
出来ない現状を、目の当りにしてしまった。

この生と死の間で、テレビや新聞や全ての媒体が、ただの数字と”お慰みのやさしさ”をCMにして、垂れ流している。

 今や力の無くなった歌手や歌は、またもやお悔やみにもならない流行歌を、街中にたれ流している。

 地震雲を見ていると無力になる。雲は、どんな形であろうが、自由で美しいだけに、無力になる。
 私たちは、自然に選択されて、数十年を活かされている。