DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2003.06.04

6月4日(水)京都の長岡京にある三菱電機の工場にお邪魔した。5万坪という広大な敷地に、大学構内のキャンパスに吹き抜けるような初夏の風が流れ、区画ごとに整頓された建物は、技術者の無駄のない思考を反映するようにシンプルだ(写真参照)。


 N氏とS氏の招待でこの研究所を訪れたのは、プリンターの説明を受けるためだった。

 ブルーの作業服が、彼らの製品作りに対する真摯なハートを一層浮き彫りにし、営業のご担当の方から、技術開発者までのたくさんの方で商品を案内する・・・・その丁寧さは顧客重視の企業マインドを深く感じさせた。


 高校時代の寮のそばにも、この会社と同じグループの工場があった。そこは、背丈より高い2メートルほどもある肉厚のコンクリートに囲まれた馬鹿でかい要塞のような建物で

 「ベトナムに送る戦車や、弾薬を作っているんだ。よく血にまみれた装甲車や機関銃が運び込まれてくるらしいぜ。」

とその頃はやりの反戦派の同級生の間で噂になっていた。


 16歳の時から父の転勤の関係で名古屋に一人残り、古出来町にある名門高校の寮から夜毎、栄町の公園に出かけ反戦歌を唄っていた。この反戦集会は毎週土曜日の夕方から夜にかけてピークを向かえ、何百人もの仲間が集い、声を張り上げてフォークソングを口ずさんだ。僕は、いつの間にかこの輪の真ん中でギターを抱えるようになった。寂しさを紛らわせるだけの、なんとも言えない中途半端な興奮と、人に見られることでの優越感が刺激となって、定まらない足元の震えを誤魔化していた。


 この夏リリースしたCDアルバム「記憶」の安藤君や、細井君などこの頃からの友人だ。

 
 将来がまったく見えない不安と、自分の事がさっぱりわからない不透明さは今日になっても続いている。

その日限りの刺激を追い求め、瞬間瞬間の中にある喜怒哀楽の中にやっとの思いで実在感を感じることで、30年も日々を重ねてしまった。


 “青い春”と書いて青春というが、誰かが言うように気の持ちようで人生そのものが、もしも青春だとしたら、僕の人生は“薄い青”の絵の具をたっぷりの水で溶かした容器を、無意識のうちに空中に放り投げたような荒唐無稽の時間の雫でしかない。


 京都に来ると、いつも決まってこの時間の流れの速さが、他の都市と異なっている何かを感じる。それはこの町の歴史や、建物や、方言や、人々の振る舞いの中にも存在するが、それよりまして僕自身の体内にある時の過ごし方の反省からくるコンプレックスが端を発した“何か”に違いない。


 路地の片隅にひっそりと静まる安定感なのか、この街を定期的に吹く風の重厚な自信なのか?


 長岡京の三菱電機をあとに市内に向かうタクシーの窓から、黒く山間に浮かぶ三日月をじっと見ていると、東京と同じ月なのに何故か僕自身が逆に覗かれているようで照れくさい。

 知らない町にいると、普段見慣れたものでも、まるで買ったばかりの鏡のように今の自分を鮮明に映し出す道具になることが多い。

 その度に何もかも鮮明にしようと試みた若いあの日を懐かしむ。