DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2003.05.03

5月3日(土)雲の上から1通の招待状が届いた。送り主は、茅ヶ崎海岸に住む作家の開高 健先生であった。(写真参照)

 茅ヶ崎まで電車で1時間。青く澄み切った空の真下の海岸の近くに、開高 健先生の自宅はあった。久しぶりにお目にかかるので、少々どきどきしながら、門に続く階段を登った。奥様との連名という先生らしくない不似合いな表札(先生はたった一人が似合う)を確認すると玄関の扉をたたいた。


 父の影響で開高作品に初めて触れたのは中学生の頃だった。「裸の王様」「流亡記」から「青い月曜日」と無我夢中でどんどん読み漁った。河出書房の作品集をあっという間に読破した。読んでいるうちに、同じような文章が書きたくなった。いわゆる物真似(コピー)のつもりで、日記の文章を先生の語句を拾いながら書いてみたが、当時の僕の能力では当たり前のように限界があった。頭の中に入っている本の量が圧倒的に足りなかった。


 大学に入ってからは、まともに先生が僕の生活に影響を与え始めた。19歳のときにヨーロッパに渡ったのも、「ベトナム不慮記」に影響され、平平凡々でのんのんとした現実の生活に嫌気が差したからだ。本田勝一氏の「何でも見てやろう」を読んでローマ行きの片道切符を購入した。


 旅行の予定を延長し、スェーデンのストックホルムに辿り着き、ヌード写真の掲載された新聞紙に包まれたフィッシュ・アンド・チップスをかじった時、僕はまだ20歳だった。


 ネクサスの藤井社長と蔭山さん(没)とヘミングウェーの特番(TV朝日ヒューマン・スペシァル)を制作した。僕にとっては、この文豪ですら、開高先生のコピーに思えた。


 書斎が覗ける庭先で、まだ先生のお尻の温もりの残る椅子と、タバコの煙が悠々と浮遊する机で一服していると、

「そろそろいいやろう」と誰かになだめられたような気がした。

まだ、午後2時すぎなのに・・・・・・・・。

記念館の奥にある杉と松林の向こうで、タータンチェックの先生が、俯きながら消えていった。